奈良県北西部
生駒渓谷の南端、竜田川の下流に位置する平群:へぐりに、平群神社がある。
廿日山:はつかやま丘陵南端の中腹に祀られている
山体信仰である。
祭神は大山祇神
別して天照大神も祀られている
異神習合である。
後に開墾された斑鳩南部でスサノヲ単体を祀ることが許されたのとは異なる慣習であり、別の氏族であることが分かる。
平群は先住民である。
平群の中心地は立田川:たったがわの東岸、椿井:つばいである。
現在ではJAや道の駅があるのが、古来から交易拠点であったことを示している。
天皇家によるヤマトの覇権が決定的になった頃、
三輪のツバイは万葉仮名で「海石榴」と書き記され、華々しく日本古代史で日本最古の市場等と謳われている。
竜田川:たったがわの西岸は、
神と王の坐します西の宮。
平群神社と並ぶように西宮古墳がある。
遥々高砂から運ばれた石材の石棺
7世紀中葉、斑鳩寺で自害した山背大兄王:やましろのおおえのおうが埋葬されたと推定される。
天皇家によるヤマトの覇権が決定的になった頃、
つまり、銅鐸圏滅亡後の圧政に苦しむ暇なく、血みどろの皇位継承争いにヤマトの民が巻き込まれていった時代、
平群氏の子孫たちは、憐れにも敗れ去った皇子を神と同化させるように祀った。
三段の方形墳墓は戒壇を表しているのか
貼石が施されたのは蘇我入鹿が討たれた後か
さらに時代を遡る
6世紀後半
烏土塚(うどづか)古墳
この西岸の小高い丘の上に、さらに高さ9mほどの山を作ってしまっている。
この頂きから見る平群谷は、まさに我が庭である。
石舞台古墳に匹敵する巨石を用いた玄室
石棺は二上山産の石材
ガラス製や金銅製の副葬品
大和川を渡らせる
古墳時代の権威「石曳き」である。
縄文期から山門と河内の中継地として栄えた平群、その最盛期の王権の威光が余すところなく著されている。
謡い継がれていた舟歌があっただろう
大和国風土記は遺されていない。