過言と言ってもおかしくはないくらいに、東京・竹芝桟橋から1,000km、小笠原海運「おがさわら丸」の貨客船で24時間。

東京の島より、日本の島で一番遠い島、「小笠原」。父島へは何度も行っていているが、その50km南にある「母島」へはまだ行ったことがなく、あののどかの雰囲気が好きで、味わいたいと感じ、今回9月25日の東京出港から9月30日の東京入港までの6日間、母島へ行ってきました。

 

今回はちょっと、普段の景色とか島の雰囲気など置いておいて、太平洋戦争の戦跡を訪ねてみました。

 

小笠原・母島は特に戦跡の跡がきちんと残ってます。

理由として、日本が無条件降伏(ポツダム宣言)をしてからアメリカの領土、返還されるまで小笠原諸島も立ち入り禁止に。

そのため、島のあちらこちらに砲台、探照灯の跡を見ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

母島の北部、東港の少し南にある探照灯下砲台と探照灯。

探照灯はレールがあって、引っ張り出すことができたり、しまうこともできたが、長年の雨や風で、今のような形に。

 

この下の写真は、宿泊したラ・メーフさんの裏の静沢地区にある101高地防空砲台と弾薬庫。

この場所は、海軍の父島方面特別根拠地母島警備隊の施設で、101高地防空砲台を設置。

この砲台は「昭和10年式」。この近くに96式機銃が台座だけ残っている。

 

 

 

 

道なりを歩くと、砲台の跡。

 

砲台の跡を少し奥に進むと、砲台と台座。

 

 

 

96式機銃。この先の部分は、遊歩道の階段の一部に使われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内部。真ん中の柱の裏には照明器。

 

うちのばあさんのお兄さん2人が小笠原の母島と硫黄島へ太平洋戦争へ出兵。

その後、母島へ出兵したお兄さんは帰ってきたが、硫黄島へ出兵したお兄さんは戦死したと。

90歳になるうちのばあさん。一度だけ、ポロリと「うちの兄さんは戦争に行って、2番目のお兄さんだけ帰ってきた。」

少ししてから、

「空襲で防空壕へ逃げた時、焼夷弾が霰のように降ってきて、伊勢崎の街中が真っ赤に燃えていて、翌日の朝見たら焼き野原で、

食べて行くのが必死だった。米がなくて、トウモロコシ、ジャガイモが主食、それでも食べるものがなかったから、着物を持って、幼い子どもを連れて農家へ行き、米と物々交換をお願いしに行ったね。だけど農家の人は物々交換を拒否してさ。無理と思って帰ろうとした時に、お米を渡してくれ「しっかり食べて育ちなさい。」と言ってくれた。このお米がなければ飢死になっていた。」と当時の事を語ってくれた。

 

お兄さんの事を聞こうとすると、なんだか寂しい顔をしてみれば、急に黙ってしまい、聞くこともできない状況に。

90歳を超えて体力も衰え始めているのが目に見えている現状。

 

映画でも「男たちの大和」や「永遠の0(ゼロ)」が放映されていたけど、実際はもっと悲惨で、食料不足のな中で闘いを強いられたという証言も。戦闘中、重傷兵士より、軽傷兵士が最優先で治療された。兵力を少しでも落とさないために。

 

日本が平和になっていることは、過去に重大の過ちがあったから。

映画「男たちの大和」に「守り抜くと、誓った。死なないで、と祈った。」と、

船上で「死ニ方 用意」というテロップが流れた途端、戦争って一言で表せない。

自分の課題でもあるし、何かお兄さんの手がかりが見つかればいいと思う今日この頃。