今回はうちの猫の話ではなく、画像もない言葉のみの記事になりますので

ご容赦ください。

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前回の記事で思わぬことに「読みたいことを書けばいい」という本に少し触れた。

そして今日久々に読んでみた。

 

その中で言葉を深く掘り下げることについて書かれていたので、

今日改めて里親という言葉について考えてみた。

 

里親になろうとした経緯については初めの記事で述べた。

しかし、改めて「里親」という言葉って何だろうと思う。

 

一般的な定義としては「諸事情で家庭で暮らせない子供(動物)を自分の家庭に迎え入れて養育する」とある。

 

一方で、他の保護活動の記事も読んで、苦労や葛藤について考えてみる。

誤解を恐れずにあえて言うなら、保護活動している人に比べて、里親はある意味自分でできる範囲でできることを気苦労せずにやっているとも言えなくない。

 

しかし角度を変えて考えてみると、

例えば保健所や保護活動で20匹の動物がいて、自分が2匹の動物の里親になると決めたとする。

それはある意味18匹を犠牲にして2匹を救うということでもある。

時間的・経済的にゆとりがあって全部救えたらいいけど、それでも世界規模でいえば無数の動物は救えていない堂々巡りである。

 

どこかの話で、

国民の8割を救うために2割を犠牲にすることを厭わないというのがあった。

これを残酷と呼ぶ人もいる。

逆に国民の2割を救うために8割を犠牲にするといったらどうか。

これは前者より残酷ではないだろうか。

 

結局のところ、どのポジションにいても「決断」するしかなく、

里親は末端なのでその「決断」にはより大きな葛藤がある。

 

個人的にはその葛藤と向き合うために、選んだ動機に対する「納得」を最重要視している。

 

すべては選べない。

でも選んだことは誰からどう思われようと大切にする。

やるなら徹底的に学び、充実させ、楽しいことをする。

それしかない気がする。

 

なので、自分が「里親」という言葉を定義するなら、

「世界を救えなくても、目の前の命を選び、誰よりも大切に育むという生き方を決断した人」と表現する。

 

自分も動物だけでなく人間も含めるといろんな永遠の別れを経験している。

葛藤だってあった。

今でもこれから大丈夫なんてことはなく、ずっと抱え込むと思うけど、

それでも次へ進むしかない。

 

少なくとも、すべてを救えなかったから諦めて思考停止するのではなく、

すべてを救えなくても思考することを諦めない。

 

諸行無常だけど、それでも自分は思考し、生きがいを探し、見つけている。