「和風」その3:高岡市!地元にステキな重伝建があったので行ってみた編。 | 白樺嵐山のブログ

白樺嵐山のブログ

旅・散歩で気になることをなんとなく「学び」に繋げていくためのブログです。

地元にもステキな重伝建地区があったので、お話します。




北野町山本通重伝建地区(兵庫県神戸市)

マイブームということで常々学習を続けている、民族建築学という難解な分野。

「和風」なまちを歩く中で、建築やなんやらについて思いを馳せながら、その正体を探っていきたい…。
そういうことで次回の旅行の計画を立てるべく、それとなく重伝建一覧ページを眺めていたところ。
なんと!わが地元である富山県、その高岡市に重伝建地区が3つもあるらしいのです!
しかも公共交通機関でのアクセス容易!!
地元民なのに知らなかった!!!

 

 

古市金屋重伝建地区(山口県柳井市)

重伝建巡り、楽しいです。

知られざるややマイナーな観光地を、わざわざ発掘している感があって。

もちろん、ある程度勉強したうえで訪問し、実践している瞬間は、もっと楽しい。
というわけで今回は。富山県高岡市にある3つの重伝建地区、すなわち山町筋、金屋町、吉久を訪問します。
前回勉強した知識をなんとなく活かしつつ、実際の重伝建フィールドワークを試していこうという回ですね。
せっかくの機会なのでね!

・・・・・・





おはようございます。

やって来ましたのはあいの風とやま鉄道高岡駅。
新幹線開通(この駅には停まらない)に合わせてキレイに整備された駅であると記憶していますが、なんといっても最大の特徴は万葉戦軌道の存在。
県下第二の都市に路面電車があるという時点でかなりレアなのに、真新しいトラムから古びた車両まで、いい塩梅でまち並みに溶け込んでいる観があります。

 





さて、北口からアーケードをしばらく進み数百メートル、路面電車が急カーブする信号を越えて川沿いへ降った先に、ひとつ目の目的地があります。
こちらが山町筋重要伝統的建造物群保存地区。商家町。
慶長十六年(1611年)の高岡開町にあたり、旧北陸道沿いに商家町を設けたことが始まりで、物資の集散拠点として発展。

まァ。いまは旧街道であると思わせないほどの車の交通量ではありますが…

 





ともあれ、近畿重伝建巡りをした時は厨子二階の京町屋が多かったので、その記憶に比してなんとも威圧される感覚。
二階建ての土蔵造り町屋が平入で連なり、黒や白の漆喰で固め観音開きの土扉を設けているさまはまさに重厚。
目抜き通りは交通量も多くそもそも拡幅されているのでしょうが、一直線に歴史あるまち並みが広がっているのは、やはり良いものです。
雪国らしいコミセも地域性が感じられてポイントが高い。
コミセの鉄柱は地元の鋳物師の作でしょうか、千本格子との色合いも合わさってステキ!

 



そして、家々の境にある巨大な煉瓦壁に目を奪われることになるでしょう。
これは大火への意識から建築されたもの。
明治の大火の復興にあたり、当時の建築制限規則に基づき防火構造の土蔵造り主屋が建てられ、煉瓦壁でもって燃焼から防ごうとしたわけですね。

なんとなく信州松本を思わせる。
町屋の横面が下見板張りになっていることも鑑みるに、絶対に延焼させてやらないのだという強い意志を感じます。

 

 



重厚な町屋建築のほかにも、近代然とした建築がちらほらあるのも面白いです。
旧高岡共立銀行本店は、町のランドマークとなっている煉瓦造りの建築物。
木舟町交差点に面する塩崎利平商店は、町屋建築に洋風の石材ブロックがはみだしちゃったみたいな建物。
橿原市今井町や亀山市関宿のような「和風」的な統一感のあるまち並みもステキですが、こういった多様な味わいを感じられる重伝建も良いですね!

 





いい街並みでした。しかしながら、まだまだ序盤。
山町筋からさらに北上、千保川を渡ってすぐ、先刻までとは明らかに雰囲気の違った街並みが広がります。





こちらは金屋町筋重要伝統的建造物群保存地区。鍛冶町。
高岡はいまでも高岡銅器の名で知られる鋳物の町で、その中心がこの街区です。
山町筋と同じく、高岡開町に合わせて礪波郡西部金屋から7人の鋳物師が招かれたことに始まる地区。

通りの両側に江戸期から昭和初期の町屋が軒を連ねているさまは、圧巻の一言であります。
流石の鋳物町というべきか、通りの至る所で現在でも営業している工房(というよりは、お土産屋さんや体験場)が目に入る。

 



さて、「和風」を強く感じる千本格子と高さの揃えられた庇はまち並みに連続性を与え、先刻まで歩いてきた車道の喧噪さとは隔絶された静謐さを産み出しているような気がします。
平入で切妻造り、二階建てで真壁造りの柱と白漆喰のコントラストは艶美とも思える。
軒の高さを感じさせるのは登り梁によるものでしょうか。

 





町屋の敷地割は短冊状で奥深く、おそらくは工房もここにあったのでしょうが…
お邪魔したお店の方によると、金屋町はそもそも生産と販売は分業制。
現在では体験こそ可能だが、工房と職人は「団地」に集住することになっており、この重伝建地区内にはほぼいないのではないかとのこと。

これも重伝建の今日のあり方、ですね。

 

 



中央通りを挟んで北側には、鍛冶町であったことを偲ばせるモニュメントが。
こちら巨大な煙突は。旧南部鋳造所のキューポラ。
明治以降も金屋町の成長は停まることなく、鋳物師たちは近代化のスローガンのもとでこういった新式溶鉱炉を開発したと。

千本格子の町並みとは、一気に印象が変わる重厚なオブジェクトでありますが…

これはこれで、大変味がありますね!





というわけで金屋町も満喫しましたので、万葉線の停留所へ向けて引き返します。
重伝建地区以外はありがちな住宅街のようすなのですが、足軽屋敷跡っぽい細い区割りがあったりする一方で、防御機能に難がありそうな直線道路、そう思ったら大きく曲流した道路など、どういった計画あるいは歴史を経験してきた城下町なのか、謎。
内町外町型の城下町なんすかね…?

やば…やば…わかんないね…

・・・・・・

 

 



高岡中心街から万葉線で20分弱揺られ、新吉久停留所にて下車。
万葉線の前身となった富山地方鉄道時代、高岡側の軌道線と射水側の鉄道線を直通させるために開発されたというデ5022号車が保存されているので、目立ちます。
そんな万葉線沿いの道路からわずかに逸れた場所、最後の重伝建地区が始まります。

 





こちらこそ吉久重要伝統的建造物群保存地区。在郷町。
加賀藩の御蔵(藩の年貢米を収める蔵)が置かれたことで栄えた町で、上方へのコメの輸出、そして各地から集まった物資を高岡へ送り届ける物資の集散地として発展。

御蔵が廃止された近代以降も、その歴史的な経験を活かした有力町民たちが米穀売買や倉庫業で名を馳せていくというのはまたまた面白いです。

 





率直な感想は、先のふたつに比べて…というよりも、私がかつて訪問したどの重伝建地区よりも生活感が強い。
中二階に窓を設けていない家屋もありますが、おそらくコチラが原形で、「アマ」と呼ばれる物置スペースであるそう。
古い町屋については平入で登り梁がありますがそこまで軒が高い印象はなく、真壁造りの木の柱とも相まって穏やかな観です。
千本格子の網目も、より細かく繊細な感じがあります。
まち並みに関しては射水側へ伸びる放生津往来に沿って続いており、緩やかに屈曲しているのもユニーク!

 

 



保存地区は10分も歩くこともなく反対側へ到達し、その先では庄川の堤防と合流します。
同地は小矢部川・庄川両河口に囲まれたデルタ地帯であり、その壮大な自然の圧力からは、何故この土地に物資が集散したのかという理由が全身で理解できます。

伏木の側には北前船の資料館がありますが、この地がその寄港地であったのだろうと、初めて肌身で感じました。

実際、迫力が凄まじい。立山連峰も見えますしね!

 

 



しかし改めて写真で見てみると、電柱がどうしても気になってしまいますね…
日田市豆田町みたいに無電柱化できるとすごく雰囲気も良くなるのですが、それが難しいのだろうということも、想像に難くないです。

…せめて歩行者天国にして欲しい!!!

・・・・・・

 


小矢部川。万葉の地。

以上、今更ながら意識することができた地元の重伝建地区について、その良さを体感することができました。
すごく楽しかったのだけれど…、それでも、見学民家が皆無というのは如何なものか。
なんとなく物足りない感が拭えなかったのは、間違いなくこれが原因。
通り土間や登り梁の解説については、現物を建物内で確認しないと締まらないのです。
これ以降、私の重伝建巡りでは町屋の内部見学が必須事項として導入されました。

年末に行くのが良くないですね、ええ。
再 走 し ろ

 


…と言いたいところではありますが、先の能登半島地震で被害を受けたかもしれない可能性は否定できませんね…
今回の震災は他人事ではなかったですが、ほんとうに、地震発生直前に訪問できたのは幸運だったのかもしれません。
そういった点の確認も含めて…、再度、訪問したいですね!