第1回尾台榕堂顕彰会実行委員長の黒川達郎が『古訓堂日乗』という著書を出版いたしました。本作品は黒川達郎の日常を永井荷風の『断腸亭日乗』に倣って擬古文で綴ったものである。笑いあり、時に涙ありの読みやすい内容で気づいたらいつの間にか続けて一冊読んでしまうそんな引き込まれる内容です。著者の黒川達郎は医師であり漢方医であり医史学者でもあります。江戸時代から続く医家の12代目でこれまでにも『漢方修行日記』『春雷~東洞世に出る~』の2冊を出版されています。特に』『春雷~東洞世に出る~』は漢方医を題材にした歴史小説でほろっと涙を誘う場面もあります。また次回作である漢方医の長編小説を執筆中です。乞うご期待ください。
古訓堂日乗 [ 黒川達郎 ]

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平成28年10月尾台榕堂顕彰会開催予定



尾台榕堂の謙虚な性格はその名前からも著作からもうかがえる。


まず名前の榕堂の榕


榕は和名あかうでこの木は大きいだけで用材にならないそうで、いわば「ウドの大木」のようなイメージで自らを号している。尾台榕堂の謙虚で奥ゆかしい人柄が伺える。


著作の井観医言


井観とは「井戸の下から見上げた景色」の意味であり「見識が狭い」という意味である。敢えて謙遜して自らの著作名としている。


では尾台榕堂は謙遜だけであったかというと方伎雑誌に


私には特別な才能はないが、幼少より雑事には目をくれず、ただ一心に張仲景の医則を学び、古方を自由自在に使いこなせるようになった。このことだけは日本広しと言えども誰にも負けない。(現代語訳)


と記述しており並々ならぬ自信が伺える。方伎雑誌のと言う字には技術の確かさと共に人間の生き方しての確かさという意味が込められていると言われている。方伎雑誌は尾台榕堂最後の著作だが、尾台榕堂の一生はと言う字に恥じない漢方医としての実力と仁医としての人柄を兼ね備えた人生であった。


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浅田宗伯は都下で尾台榕堂と評判を二分した名医であり、住居も4軒隣の家の向かいであった。しかも入口は向い合っており、玄関から出てひょいと顔を伸ばせば医院にどれだけ患者がいたのかも確認できたかもしれないと言われている。二人は良き友人であり、しかもライバルであったと思われる。


1815年 長野県筑摩郡栗林村(現松本市)に生まれる。


1829年 高遠藩の藩校にて中村中悰に学ぶ。


1832年 中西深斎塾に遊学。


1836年 江戸にて開業。


1858年 幕府御目見得医師となる。


1865年 フランス公使を桂枝加苓朮附湯にて全治させる。


1868年 大政奉還。


1878年 『勿誤薬室方函口訣』を著す。


1879年 漢方存続団体 温知社結成。


1886年 『橘窓書影』刊行。


1894年 2月15日永眠。


尾台榕堂は明治3年に死去。浅田宗伯は明治27年に死去している。もし浅田宗伯が短命であったなら『漢方の灯』は私たちにつながれる前に消え去っていたかもしれない。2015年は浅田宗伯生誕200年にあたる。漢方に携わる方は是非一度浅田宗伯の必死で漢方を守った人生に目を向けていただきたいと思う。


参考 第1回尾台榕堂顕彰会の渡邊浩二先生講演より


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尾台榕堂の生誕地は現在の新潟県十日町市である。恥ずかしながら私は新潟県に行ったことがない。しかし近い将来必ず行くつもりである。尾台榕堂のふるさと十日町市はこんなところである。


人口

58000人あまり。地方都市の共通点だが人口は減少傾向で1970年には80000超の人口があったのを考えると40年程で3割減少したことになる。


気候

豪雪地帯として知られ、平年2~3メートルの積雪がある。


特産品

トマト(カルビタトマト)、アスパラガス、豚肉(妻有ポーク)、ナス(梵天丸ナス)、人参(雪下人参)の他にへきそば(海藻をつなぎに使ったそば)が有名。花の栽培も盛んでカサブランカが有名。そして何と言っても魚沼産コシヒカリの産地である。当然のことながらせんべいや日本酒がうまいことは言わずもがなである。


観光

十日町市雪まつり(日本最初の雪まつり)

笹山遺跡

大地の芸術祭


国宝

笹山遺跡から出土した火焔型土器は縄文時代の遺物で初めて国宝に指定された。



出身有名人

宮前真樹(元CoCo)

しげの秀一(漫画家「頭文字D」)

岡田紅陽(写真家)


参考サイト wikipedia 十日町市

行ったことがない私が言うのもなんですが、是非一度お越しください。

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1799年 越後の国中条村(現新潟県十日町市)に生まれる。


13歳 初めて病人を診察。傷寒に麻黄湯を処方

(この年父と祖父が相次いで死亡する)


16歳 江戸に出て尾台浅嶽に師事。

(以後10年間修業し浅嶽門弟筆頭になる)


26歳 兄の病気に伴い帰郷して兄とともに開業。


36歳 江戸の大火。師浅嶽が心労で死亡。

(師恩に報いるため再び江戸に出て師家を継ぐ)


37歳 この頃私塾「尚古堂」を主宰。生涯300余人を育てる。

(以後家名を汚さず益々繁栄。名医の代名詞となる)


53歳 初めての著作『橘黄医談』を著す。

(生涯20冊を著作。なかでも『類聚方広義』『重校薬徴』『方伎雑誌』などは現在でも漢方を学ぶ者にとって必携の書となっている)


63歳 第14代将軍徳川家茂の侍医となる。

(この際①剃髪せぬ事②常詰出仕でない事③庶民の診療を続ける事を条件として受諾。この申し入れの許可は当時としては異例のことであった)


69歳 家督を尾台浅嶽の遺児武雄に譲り執筆活動に専念。


72歳 明治3年11月29日巣鴨の自宅にして死亡。



第2回尾台榕堂顕彰会 

平成28年10月頃

東京八重洲ホールにて開催予定


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