母成峠古戦場跡を散策する・・・の巻 | 乾パンのブログ

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今日がGW最終日ですが・・・

いつもながら、GW・お盆・正月の長期休みはあっという間ですねぇあせる

明日から仕事だと思うと憂鬱です。

 

比較的好天続きだったGWですが、今日は雲天で小雨が降る生憎な天気でした雨

まぁせっかくなので郡山市と猪苗代町をつなぐ母成峠まで散策に出かけました車

ここは1868年(慶応四年)の戊辰戦争において新政府軍と反政府勢力による合戦が起こった場所。

 

当時の戦況図は以下の通り下矢印

 

 

白河口の戦いで白河小峰城を奪取した新政府軍は奥羽街道を北上し二本松城も陥落させます。

この時点で、奥羽越列藩同盟の最大かつ最強硬勢力である会津藩の攻略を

最優先にするのかはてなマーク後回しにするのかはてなマーク戦略方針を巡り対立がありますがそこは割愛。

 

結局、会津藩攻略最優先となりますが、どこから攻めるかはてなマーク

会津藩もこの状況を理解して防備に務めますが、

①二本松から越後街道を通って中山峠から侵攻

②白河から白河街道を通って勢至堂峠から侵攻

③日光から日光街道を北上して侵攻

と予想していたそうです。

 

 

ところがここで新政府軍は中山峠の北側にある母成峠からの侵攻を選択。

これは会津藩側とすれば想定外。

 

大鳥圭介率いる伝習隊(旧幕府陸軍脱走隊)と、土方歳三・斎藤一率いる新選組が中心となり

(その他、会津藩・二本松藩部隊)が防御線を張り対処することになります。

 

結果的には兵力・武力共に圧倒的劣勢だった反政府軍は1日で敗走し、

新政府軍は母成峠の戦いの翌々日には会津市街に殺到・・・という快進撃を見せることになりまして。

 

この予想外の出来事に会津藩は混乱し会津中心部守備のために、

白虎隊等の予備兵力を投入せざるを得ない事態となってしまったわけです。

 

 

母成峠古戦場の石碑。

 

 

戦いの当日も霧が濃かったそうです。

 

 

この「戊辰戦争 会津藩母成峠陣跡(遺跡)」の標識が役に立ちました。

 

 

そもそもは上杉景勝藩主時代の会津藩が築いた防塁を補強した防御施設だったんですね。

1600年って言えば・・・関ヶ原の戦いがあった年だけど、そのための防塁だったんだろうな。

 

 

砲台とあるけど現地には何ら標識類はないので、この展開図が頼りです。

 

 

散策路を通って北側の防塁。

確かに盛土してますね。

凹地は昔は深い薬研堀だったんだろう・・・って妄想するのが楽しいのです。

ウキウキしますドキドキ

 

 

旧道を横断して・・・

 

 

ピンクテープがないと何処から山に入って良いのか分かりませんねぇえっ

 

 

防塁が続きていて・・・

 

 

ここがかつての砲台ですかねぇはてなマーク

なんの標識もないもんなぁ

NHK大河ドラマ「八重の桜」をやったときとか、もうちょっと整備しても良かったのでは汗

 

 

で・・・現道を横断して南側の堡塁へ。

この道路標識とガードケーブル端末支柱の間が入口。

分かりずらい叫び

 

 

この盛土が防塁のようですね。

実は・・・道に迷いましたショック!

 

 

防塁の上を南側に進みます。

 

 

と思ったら、藪に突っ込みまして・・・

突如として腕に鋭い痛みが・・・棘のある枝によって、私の腕の皮膚が切り裂かれていましたガーン

痛いDASH!

植物の棘って痛いですねぇショック!

 

 

目の前に人工的と思われる高台が現れました。

ここが砲台だな恋の矢

 

 

周囲は塹壕で取り巻かれているようです。

これも昔はもっと深かったと察します。

 

 

結構な規模の防塁と塹壕でそこそこの防御力はあったと思うんだけどなぁ

 

 

なお、現在の日本に多く見受けられる緑樹地帯は明治時代以降からの植樹による成果なんですね。

江戸時代までは薪や木炭(炊事・暖房用)に大量の樹木を伐採したため、

意外と木々がないはげ山や荒涼とした丘陵が多かった・・・ようです。

 

 

この内側にくるくる巻かれたシダ植物はなんだろうはてなマーク

 

 

白いラインの入った黒い羽根、黄色い胸、オレンジの喉元、スズメ大の大きさ。

これはキビタキですか。

可愛いなぁラブラブ

福島県の県鳥であります。

 

 

母成峠古戦場跡の近くに戊辰戦役東軍殉職者慰霊碑があります。

 

 

慰霊碑、合掌(-人-)

 

 

由来があります。

戦死した反政府軍兵士の死骸は埋葬を許されず放置されたそうで。

それを地元の人たちが不憫に思い、まとめて仮埋葬され埋められたようです。

それが90年後の1978年(昭和五十八年)に再発見されこの地に慰霊碑が建立されたとのこと。

 

 

この土饅頭が仮埋葬された場所のようです。

合掌(-人-)

 

 

周囲にはまだ桜の花が散らずに咲いていました桜

この辺りは寒いんだろうなぁカゼ