二本松城を散策する・・・の巻 | 乾パンのブログ

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年度末はさすがに仕事が忙しくててんてこ舞いです汗

今日の午後はやっと時間が空いたので、二本松市にある二本松城を散策しに行きました車

前々から一度行きたかった城跡です。

 

 

二本松城

別名、霞ヶ城ですかニコニコ

 

 

正面、千人溜には二本松藩少年隊の銅像有り。

1868年(慶応四年)の戊辰戦争において二本松藩も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と抗戦し、

二本松の戦いにおいて大量の戦死者・(割腹による)自殺者を出す結果となりましたDASH!

 

 

高い城壁・・・典型的な近世城郭ですな。

 

 

構造物は全て戊辰戦争で焼け落ちたそうで、これらの建物は昭和期に再建されたそうです。

 

 

いわゆる、枡形門ですかねはてなマーク

 

 

三の丸は広場となってます。

二本松城はそもそも戦国城郭を「近世化」したようで、ここから本丸が高くて遠いチョキ

 

 

ヒィーヒィー言いながら坂道を登りまして走る人

戦国期の城壁はこんな細かい石を積み上げていたそうですな。

 

 

こんな高いとこまで、よくぞこんなデカい石を持ってきたもんだクラッカー

 

 

本丸は小さな広場となっていますが、こりゃ丸1日居ても飽きないなラブラブ!

 

 

こんなに眺めが良い城跡も珍しいぞ音譜

城下町も丸見えです。

 

 

振り返ると・・・安達太良山もくっきり富士山

しばし見とれてしまいました。

 

 

二本松城と城下町を結ぶ道には切り通し状となっていまして・・・

こりゃ防備が堅いね。

 

 

街側にあるこの場所に大手門があったそうです。

 

 

城下町とお城を結ぶ坂道。

今となっては交通の邪魔だよな。

 

 

二本松は酒造所と菓子店がやたらと多い印象ラブラブ

 

 

JR二本松駅駅前にも戊辰戦争時の少年隊の銅像有り。

地元の人は戊辰戦争のことをよっぽど根に持ってると思われます。

 

300年続いた江戸幕府の終焉には誰かが幕引きしなきゃならなかったのですが、

これを東北諸藩が貧乏くじ引いて引き受けることになるとはねぇ

 

二本松藩も新政府に叛した咎により石高半減(10万石強→5万石)

コレが無きゃ御殿様の丹羽氏も子爵じゃなくて伯爵だったのになぁ・・・(多分)

 

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二本松市と言えば・・・「智恵子抄」で有名な高村(長沼)智恵子の生家がある場所ですな。

 

 

ココが智恵子が生まれ育った家だそう・・・

よくぞ残っていたねぇ

 

 

高村智恵子資料館にも入りました。

智恵子は勿論知っている人は知っているのでしょうけど、

画家・歌人・詩人だった高村光太郎の奥さんだった人。

 

類い希な女性芸術家で、平塚らいてうの雑誌「青鞜」に参加するなど進歩的な人だったようですが・・・

父の死・実家の没落を経て、精神失調症を発病していまいます。

 

光太郎がその智恵子について歌った詩集が「智恵子抄」

読んでみると結構強烈ですな。

気が違っている妻を見守るしかない光太郎・・・胸が締め付けられます。

 

あっそうだ・・・

智恵子は東京に空がないといふ・・・」ですが、

これは東京の空が汚れているとか、高層建築物で狭いとか、のような物理的な意ではなく、

精神的な意で空がない・・・のようです。

 

 

智恵子の実家は酒造業を営んでいた豪家だったようですね。

なかなか凄い家です。

 

 

旧奥羽街道。

今では通る車も少ないです。

でも如何にも旧道の雰囲気に満ちています。

 

 

城下町独特のクランク(鍵の手)

こういう邪魔があって通り抜けしづらいから、城下町にはバイパスを作るしかないんだよなぁ汗