砂漠の街の夢  上 (リンver.) | 風紋

風紋

鋼の錬金術師ファンの雑文ブログ



  リンとランファンに愛が偏っています

宴に高揚した頬を、宿泊棟への長い回廊はゆっくりと冷やしてくれる。
きらきらしい衣装や装飾品、グラスや食器酒瓶の輝きで眩んだ目を中庭の
暗がりにやれば、其処彼処で小さなかがり火が焚かれていた。
耳に届くのは楽器をケースに収める楽団員のざわめき、盆の上でグラスがぶ
つかりあう音、そして名残を惜しむ声。

ここが十何年か前にアメストリスで最も悲惨な内戦と民族虐殺があった街とは
思えない。
イシュバール。荒れた砂漠のなかの土地。
イシュバラ神を唯一の心の拠りどころとする褐色の肌と赤い目をもつ人々が、
蹂躙され斃れた場所。

久しぶりのアメストリスだった。
シン国皇帝という身では、そうそう訪れることができない。
砂漠横断鉄道が再び開通した時にシン・アメストリス両国で式典が行われた
時以来の訪問だった。そしてアメストリス国の招きではないのは初めてだ。
今回俺は『国際錬金術・錬丹術学会』の初会合に名誉総裁として参加した。
開催場所は研究都市が作られたばかりのイシュバール。
どちらも異例中の異例だ。

即位後俺がアメストリスを始めとする西の各国との国交を活発化させるにあたっ
て考えたのはシンを『歴史ある学問と文化芸術の国』と打ち出すことだった。
戦火の絶えない西の各国と距離をおいた先帝の判断は間違ってはいなかった。
しかし、その間に錬金術はシンの錬丹術とは全く違った進化を遂げていた。
たとえば人間大量破壊兵器として。
そんな国々に対し、『東の大国』として砂漠という緩衝地ごしに胡坐をかいてき
たシンが鉄道を再敷設し国交を回復させていくにあたってどう渡り合うか。
武力ではなく歴史ある学問と文化の国として、その存在感を示すには錬丹術を
大々的に打ち出すべきだと俺は考えた。
後宮を皇帝直轄の錬丹薬療院に変え、各部族から腕利きの術師を集めた。
勘違いした首長によって容姿端麗な娘の術師が寄越される例も多々あったが、
多彩な知識が集積されることになった。
もともと後宮に養生の知識が必要とされていたからだろうか。去る者もいたが、
そんな女性術師も求められるのは研究と知って尚残った者は優秀だった。
薬草治療や刀鍛冶の得意な部族や建築に優れた部族などの知識はもちろん、
呪術と思われているものにも意外な知見があった。
あとはこれをシンのために上手く使うだけだ。
留学に来たアルフォンスを通じてアメストリスの研究者たちと繋がり国際錬金術・
錬丹術学会を立ち上げさせ、自分は名誉総裁という座に滑り込んだ。
掲げる理念は『錬金術及び錬丹術の発展と平和利用』
『約束の日』にあんなグロテスクで自分勝手で破滅的な力をがわれるのを見た
者ならこれを心底願わずにはいられない。

当初は鉄道交易の拠点としての復興を狙っていたイシュバールを錬金術の街
として発展させたのは、ロイ・マスタング中将の辣腕によるものだった。
『約束の日』の顛末を軍上層部とそれに従った国家錬金術師の暴走という
線で明示していったのだから、軍と錬金術の癒着への視線は厳しくなった。
国家錬金術師制度の廃止も含めた事件の対応のなかで、セントラルの各
研究所が検証のため封鎖され、軍から独立した錬金術研究の拠点が必要
となった時にイシュバールにそれを置くとしたのは慧眼だ。
地理的に辺鄙だとも因縁の地で反感が懸念されるともいわれたイシュバール
研究都市計画だったが、好調な滑り出しで迎えられた。
地理的にシンと近いイシュバールを『東西文化の混ざり合う寛容の地』とすると
宣言したグラマン大総統の功績が大きい。
シンとの国交回復、鉄道の再開という変化に伴い民族色を東洋寄りに薄め
ることでイシュバール人が再び集まり住むことへの抵抗を減らしたのだ。
シン西域の部族の地に逃れていたイシュバール人に帰郷事業を伝えることが
できたのも、復興の足掛かりになったと思いたい。

事件があり、政権が変わり、人も変わっていく。世の中の変貌を肌で感じる。
アメストリスも随分と変わった。
軍と政治の分離が進み、民間の力が生かされるようになったと感じる。
国際会議が開かれたこのホテルイシュバールも民間の経営だそうだ。
長年錬金術師を厚遇してきたハンベルガング財閥により建設されたという。
過去に質実剛健さばかりが目に付く軍ホテルや迎賓館を見てきたが、こちらの
方が断然にいい。
乾いた土地の風景に溶け込みながらも悠然とした佇まいを見せるこんなホテル
や研究施設群が新しいイシュバールを作っていくのだろう。


宿泊棟のロビーラウンジでは旧知の友が待ち構えていた。
俺が理事たちとの挨拶に時間をとられあまり話せなかったからだろう。なかなか
可愛いところがある奴だ。口は相変わらず悪いが。
「おいリンこっちだ!」
「この場では総裁とお呼びなさいとあれほどド!」
ランファンが柳眉を逆立てる。
「俺らの間で今さら呼び方なんてどうでもいいだろうが。」
「貴様がよくても周りの人が何と思うか考えが及ばぬのカ。貴様いくつダ。」
「ちょ、ひと言多いだろ。ケンカ売ってんのか。」
「不審者として排除されぬよう気をつけろと言っていル。」
もういい加減落ち着いてもよさそうなのに、この二人は顏を合わせればこの調子だ。
結局似た者同士なのだろう。双方から全力で否定されるから口にはしないが。
俺を挟んでじゃれ合いをしているようなものだが、とりあえず止めに入る。
「ランファンいいヨ、エドが行儀よくしてたら気味が悪いだろウ。」
「はイ…」
ランファンは不本意そうだったが、一瞬ののち吹きだした。行儀のいいエドワードを
想像したのだろう。
「そんな甘やかしたら兄さんはシンの宮中に行ってもこの調子だよ。いいの総裁?」
「その機会が来たらアルが全力で躾けてくれるからネ。」
「うわ、僕に丸投げするの!さすが皇帝、人使いが荒いなあ。」
「アル様はシンの宮中でも女官たちが感心するほど礼儀を学ばれましたからネ。」
いつの間にか忙しくしていたメイも戻ってきて、ウィンリィの側で話しかける。
「メイちゃんお疲れ様。休まなくて大丈夫?」
「ありがとうございまス。総会が大成功で終わって疲れなんて吹っ飛びましタ。」
「お見事でしたお姫様。でもあまり無理しないでね。」
「あーんもう!西の賢者の息子で凄腕錬金術師でこんなに優しいなんてどれだけ
ハイブリッドな存在なのアル様ハ。」
メイとアルフォンスの戯れ合いは微笑ましく見守ればいいのか、呆れればいい
のか。多分どちらも正解だろう。
「メイちゃんはもちろんだけど、アルがシンでもの凄く熱心に研究したのがこう
して術師たちの間で知られてるのが私すごく嬉しい。エドが案外有名な研究者
だっていうのもね。」
「なんで俺は『案外』なんだよ。」
「家にいるときのあんたなんてばっちゃんの手伝いにもならないじゃない。」
「それは俺の知識と才能が発揮できないだけであって」
「否定しないんだナ。ぜひウィンリィの言う事をよく聞くいい夫であってくレ。」
また口ゲンカになりそうなランファンの発言だが、しみじみ願う言い方にエドは
言葉に詰まりアルは吹き出し、ウィンリィは感極まっている。
エドとウィンリィは一昨年結婚した。結婚式には俺もランファンも参列できなかっ
たがメイが代わりに祝辞を読んで祝いの品を渡してくれたのだった。
結婚を祝う言葉は今日再会した時に真っ先に伝えたが、こうして並んでいる
姿を見るとまた違った感慨がわいてくる。
「シンに夫婦旅行招待するより先にイシュバールで会うことになっちゃったけど、
よかったのかナ。」
「ひっさしぶりにランファンに会えるんだもの、文句なしよ。」
「えー、俺ハ?」
「リンはおまけかな。」
「おまえはランファンの腕が見たいってのが本音だろうが、機械鎧オタク。」
「ウィンリィったらランファン忙しいのにパーティー前の控室で機械鎧見せても
らってさ。」
「おいおい、事前の見回りが随分長かったのはそれでカ。」
「申し訳ありませン。総裁は理事の方々と一緒の控室で少々気詰まりだった
ものですからつイ。」
「私が無理言ったのよ。ドミニクさんの新作の機械鎧この目で見たくて。あー
ほんと最高にカッコいい!この腕もランファンも。」
ウィンリィがランファンの肩を抱くようにして言う。華麗なドレス姿の若い女性
が戯れあうのは目の保養だ。つい目尻が下がってしまう。

「本当は迷ったのよ。でも思い切って来てよかったわ。明日はお父さんとお母さ
んが亡くなった場所に行って、花を供えてくるの。」
「ウィンリィはイシュバールに慰霊公園が出来たときは行きたくないって言って
たんだよね。」
「だって、いかにも罪ほろぼしですって感じのパフォーマンスに見えたんだもの。
そんなの私の気持ちと違うと思って。」
「今はどんな気持ちだイ。」
「うん…。私も父さんや母さんを亡くしてつらい気持ちは全然薄れているわけ
じゃないけど、誰でも手をあわせて偲べる場所が出来たのはいいことだと思う
んだ。これからのために。」
よくある言葉だがこれから母になろうとするウィンリィが言うと重みが違う。
「そう、これからを語れる場所になったのはいいよね。悲惨な内戦があった、足
を踏み入れちゃいけない場所にされてたイシュバールがさ。」
「色んな人間がいる限り諍い争いは起こってしまうけど、それでも傷つけあわず
に妥協点を見出せるはずだ。そのための努力と知恵を放棄しない限り。
それを体現できる場所になれると俺は思う。」
「そうよね。母さんや父さんもそれを思って医療援助に行ったんだもの。錬金術
で出来ることがあればそれを活かすのがよい道だと思う。」
幼い頃に村がテロ事件で焼かれたことがある3人がそれぞれ、真剣にイシュバー
ルのことを考えている。
あの年の冬から春、イシュバールは単に血の紋を刻む点として陥れられ殲滅され
たと知ったのは、この3人が傷の男と共に行動する時間があったからだという。
イシュバールといえば傷の男を想起するのだ。俺もランファンも同じく。
『約束の日』にブラッドレイとの死闘の末爆発に巻き込まれ、瓦礫の下敷きに
なって死んだらしいという傷の男の姿はまだ心の中に消えがたく居る。
それを受けたようにメイも口を出す。
「私はイシュバールが錬金術で復興することが本当にいいことなのかまだ
わかりませんけド、錬金術師ではない普通の人のウィンリィさんがこんな
風に思ってるなら今日までイシュバール研究所でやってきて良かったでス。」
一番そのスカーと称した男の名を無邪気に呼んで、懐いてさえいたメイが
その名は出さずに思いを語っているのが伝わってきた。研究発表のときも
それは感じていたが、今は素の姿のせいかさらに強く響いた。
「メイちゃ~ん。私研究内容はよくわかんないけどメイちゃん頑張ってるのは
すっごくよくわかるから!あなたすごいから!ほんといい子!」
「ウィンリィさン!」
ひしっと抱き合う二人をエドとアルは少々引きながらも嬉しそうに見守って
いる。この兄弟も相当暑苦しい仲だがそれにひけをとらないあたり、ウィンリ
ィとメイもいい義姉妹になるだろう。

しばらく他愛もない話をして笑っていたが、
「失礼しますメイチャン先輩!師父がご挨拶したいそうです。」
メイの助手的存在らしい学生が呼びに来たのを潮に、名残は惜しいがお開きに
することになった。
立ち上がり向かい合うと髪の毛と同じ金色の眼と高さが並んだ。エドとは最初会っ
た頃は向き合えばつむじが見えるくらいの身長差があったものだ。あれから何年
経っただろう。あと何度こうして向かい合えるだろう。
柄にもなく切ないような何ともいえない気持ちになるのを抑えて言う。
「こうして先例を作ってやっタ。ややこしい立場だが、何かあれば俺はいつでも
駆けつけるつもりダ。また会う日を楽しみにしていル。」
「アルにまかせて後回しになっちまったけど、今に中将をちょいっとだまくらか
してシン国皇帝に謁見しに行ってやらあ。待っとけ。」
エドが勢いよく空威張りをふかす。
「そんな大層なこと言わなくてもシンは僕のもう一つの祖国だし、道も鉄道も
繋がっているよ。なんてことない、普通に、もう。」
「そうですヨ、本当ニ。」
留学で何度も行き来している二人は頼もしく言いつのる。
「そうだな。なんつうか俺ら、家族みたいなもんなんだから。」
「おウ!」
心意気が嬉しくて声をあげ拳を握った。
「またな。」
目の前に掲げた拳同士をお互いぶつける。
「まタ。」
いつかと同じような別れ。今日のようにまたきっと会うために。


ロビーラウンジからエレベーターのあるホールへと向かう。
腹心の臣下はドレス姿でも、いつものように背筋を伸ばし先導して歩く。
ふっと息をつくと
「いい宴だったな。」
思わず言葉が口をついて出た。
「ええ、楽しい時間を過ごせて感謝したいです。」
「こんな形で異国で友人に会うことが出来るなんて数年前は思いもよらなかった
のに、本当に出来たんだな。」
「皇帝自らご尽力されたのですから、当然です。」
「俺が出来ることなんかたかが知れてるよ。」
「夢を持てる未来のためにこうしたいと示してくださる皇帝がいらしてこそ、
私たち臣下は思いつきもしないことさえ実現させようと働けます。それは
皇帝の力です。」
「そうか。そうだな。」
成し遂げたことに今さら自分で納得するのもおかしいが、信頼できる臣下の
言葉でそれを聞けて改めて実感する。
それを補強するように臣下は言葉をつなぐ。
「術師、いえ研究者の集まりがあんなに面白いものとは思いませんでした。」
「世の中のどんな物も現象もあの連中にかかると玩具みたいになるな。」
「それもですけど、人物自体変わった方が多いですね。」
「多かれ少なかれみんなエドワードと同類だからか。」
「その括りはアルフォンスが嫌がりますよ。」
「あはは、違いない。」
笑っていると、改まった顔をして西洋の淑女の姿をした臣下が言う。
「私も非力ですが今回準備にあたって、メイ様には本当に助けられました。」
「あれは随分と立派になったな。あか抜けてどこの国へ出しても恥ずかしくない。」
「充分にねぎらっておあげ下さいませ。文官3人分の働きはして下さってますよ。」
それは重々承知している。ありがたいことだ。


国際会議をパネリストの一人として進めるメイは堂々としていた。
錬金術と錬丹術の相違がいつどこで起こったかを探る研究をライフワークにする
ようになり、この分野の第一人者である。『お父様』により長きにわたって隠蔽
されていたことを知り、ヴァン・ホーエンハイムと短い間ながら共に過ごしたメイが
この研究に関わるのは必然だったのだろう。
合成獣にされた人間をもとの姿に戻す研究をするアルフォンスには、自らの父
の辿った道を探る時間がなかなか持てず、メイが彼に代わって調べものをする
うちにそうなったのだ。
ホーエンハイムが隠者のように過ごしてきたことと、『お父様』が意図的に記録
を破却してきたことにより、当初は知れることはあまりにも少なかった。
そんな状況を打破できたのはイシュバールのおかげだ。シンにもアメストリスにも
残っていない古い錬金術の記録が古イシュバール語の文献により初めて裏付け
られたのだ。
そしてそれは、スカーとの逃避行中に古イシュバール語に触れたメイでなくては
できなかったのだから、運命というものを感じずにはいられない。

メイは現在、アメストリスに留学している。
帰国するアルフォンスと同時期の留学なので、すわ結婚かと騒がれたが優秀な
錬丹術師かつ信頼できる姫である可愛い妹をそう簡単には渡せない。
メイはごく若く、俺の治世もまだ始まったばかりだ。可能性は伸ばし、決断の
切り札は先の大事のときまでとっておきたい。
どんな形になるのが最善かはまだ見えないが、いつか来る決断が二人とふたつの
国によい未来をもたらすものであってほしいものだ。

「ランファンもこっち来て、一緒に写りましょうよ。」
エレベーター前のホールにはイシュバールの礼拝所を模した装飾壁があって、そ
こでメイは引き連れてきたシン国留学生仲間たちと記念撮影に興じていた。
見ればどの学生も色や形は様々ながらシン風を取り入れた盛装で、リボンやチー
フなどどこかにイシュバールの縞織を身に着けている。示し合わせて揃えたのだ
ろう。はしゃぎながら集って仲のよいことだ。
どの部族も守るという誓いは先帝から続く旧臣たちには理解しきれず融和など
綺麗事だという声もある。ならばより新しい世代の育成に努めることだ。
メイと共にすべての部族から代表して出された留学生たちは、あえて海路で
旅立たせた。反発しあっても完全に離れることのできない船旅はお互いを理解
し合うのにちょうどいい。調整役に駆り出されるメイは苦労したらしいが、彼ら
は皆よい関係を築けたのだろう。思えばメイとランファンも最初はいがみあって
ばかりいたが、シンに帰り着く頃はすっかり姉妹のようになっていたものだ。
狭い宮中でいがみ合うだけの連中はいずれいなくなる。
このように未来の指導者たちが世界に通じる知識と経験を積み、仲間として
一緒に成長しているのだから。

請われてひとしきり写真撮影に参加した後、メイと留学生たちはコテージ棟へと
移動していった。あの様子だと、夜通し集って語り遊ぶのだろう。
アルフォンスはそれに付き合って徹夜するだろうか。いや如才ないあの男のこと、
多分周囲をうまく言いくるめてメイを途中で連れ出すに違いない。
まあここは知らぬふりをしておいてやろう。

夜が更けて集っていた人々がそれぞれ休息を求めて部屋に戻ってゆく。
同行のシン国勢も顔に疲れが見えてきた。職員たちにねぎらいの言葉をかけ
随行の者も下がらせる。
「ご用を聞く者を残さなくてよろしいのでしょうか。」
時々存在を忘れるほどさりげない働きをする事務官が訊く。
「これが居る。問題ない。」
「では何かあればお申しつけください。この部屋におります。」
事務官はランファンに連絡カードを手渡す。
「明朝お迎えにあがります。」
どこまでもさりげない事務官はエレベーターの扉が閉まるまで礼をして言った。


特別フロアに人の気配はほとんどない。
警備のためエレベーター自体が他のフロアと分けられているからだ。
廊下の一隅で控えていた黒いスーツの職員が目礼をする。
「ご苦労。」
通りがけに声をかけると彼の目がランファンの左腕にさりげなく注がれていた。
だが俺が顔を向けると注意を解く。
「君、いい勘をしてるネ。俺の部下にならなイ?」
「いえ、私は。失礼しました。」
謙遜とも断りともつかぬ短い返事だけで職員は控えの場所に下がった。

「なあ、今のは。」
「キメラでしたね。」
充分に離れてから小声で確かめると、臣下は即座に断定する。
中年のあの職員は気配が明らかに普通と違っていた。
「たぶん犬。ザンパノと同じような者でしょう。」
「何にしろ、頼もしい。」
シンでは合成獣でも元軍人の仕事があるとアメストリスの地下退役軍人網で
噂になったらしく、皇宮の情報管理官のもとにひっそりと人材が集まりだしたの
は即位して3年目からだ。
ザンパノとジェルソがアルフォンスと共にシンに落ち着いた頃と時期を同じくし
ているので因果は明白だった。
シンの国軍では無理だろうが、皇帝の私兵に国内のどの部族とも繋がりを持たぬ
外国兵を雇うのはかえって好都合というもの。加えて合成獣にされた者は書類上
は死んだことにされているという。今さらアメストリス軍に通じることもないだろう。
わざわざ砂漠を渡って来た者は人柄は見るが委細は聞かず素知らぬ顔をして雇う
ことにしている。合成獣は人間の感覚では捉えられない異変を察知できる。隠れて
作戦行動することも上手い。
彼も同じような者だがこの国のシン大使館から来ている護衛だろう。
「私の左腕に気づける者なら任せても安心です。」
合成獣に慣れきって事もなげにそう片付ける彼女も、相当なものだが。



重厚なドアの向こうの部屋はあたたかみのある照明と花の香りで迎えてくれた。
厚手の織のカーテンが引かれ、中央に大きなランプが置かれたリビングは先ほど
のレセプションルームのミニチュアのようだ。
思わず何度も繰り返し演奏されていた輪舞曲をふざけた調子で口ずさむ。
くすくす笑いをしながら彼女もハミングで辿る。
あの曲は心が浮き立った。少しいたずらっ気がある楽しい旋律だった。
西洋の曲だが、打楽器にシンの銅鼓や箏を加えた編曲がされていたのだ。

「面白いですよね、西洋の音とシンの音が重なって。」
「音楽も錬金術だな。混ざって交わって変化し新しいものが出来る。」
あまり音楽には熱心でないランファンが目を輝かせていたのが珍しかったが、
どうやらよほど気に入ったらしい。
音楽は多くの人の動きを支配する力がありますから、というのが彼女の持論だ。
その場で演奏される音楽の流れに身を乗せると、楽曲を提供する側の支配下
におかれやすいから護衛としては夢中にはなれないという。
確かに軍楽はそれそのものだし、宮中行事などで音曲を演奏するのは威厳を高め
るたり、華やかさを演出するためだったりするのでもっともではある。
そんな彼女のプロ意識も今日の宴の間は取り去られたようで、嬉しかった。
やはり楽しい時は一緒に楽しい気持ちになってもらいたいものだから。

ちょっとした悪戯と、ハミングを続ける彼女の前に小腰をかがめ右手を差し出た。
ランファンは一瞬戸惑ったものの、俺の掌に指先を乗せドレスの端をつまんで小
首をかしげるようなお辞儀をする。普段は真面目きわまりない臣下だが今日は
ことさらにノリがいいようだ。
向き合って背筋を伸ばし互いの顏を見る。腰を支え手を組んで歩を滑らせる
と輪舞のステップになった。二人だけの部屋での小さな舞踏会だ。
三拍子を数えながらふりをしてみたが、たいして練習もしていないダンスの真似
事はそう長くは続かない。
あやふやになったのをお互い照れ笑いで誤魔化てし小舞踏会は終わった。
それでもよい心地はまだ残っている。
二人めいめいにソファへ体を投げ出して伸びをする。

「パーティーでダンスを遠慮しないで済むにはもう少しだな。」
「もっと音楽を聴いて、練習しませんと。」
「それもだけど、旧守派の大臣たちに西洋かぶれと苦い顔されないくらい、文化
が交わって欲しいものだ。」
「本当ですね。」
「俺たちの国も、かの王朝の時代はあらゆる国の者が集っていたんだからな。」
「驚くほど多くの物と人が行き来して、自由で活気づいて。」
「そういう強さを持ちたいよ。」
「多くの人の気が向かえば流れが出来ますよ、きっと。」
「流れ、かい?」
「どの術師だったかが言ってましたけど音も波、光も波なんですって。」
「理屈とすれば確かにそうだけど、なんでわざわざその話をおまえに。」
「波が起きて、広がって伝わってぶつかったり跳ね返ったり干渉しあったり、
絶えずそういうことが起こっているんですって。音も光も地殻さえも。」
「なるほど龍脈の話がしたかったわけだ、その術師は。」
「ええ。シン国皇帝は錬丹術師ではないのに龍脈という大いなる流れを
つかさどると言われるのは、民一人ひとりが感じ取っている光や音や風や
地鳴りを集め受け止める装置としての存在なのではないか、なんて事を
言ってました。」
「装置なんて失礼な、とか言って怒らなかったのかい。」
「皇帝を軽んじているようには見えませんでしたから。」
「なるほど。そういうところはエドとは違ったわけだ。」
「やめて下さいな。皇統を持たぬ国の者はこんな解釈をするものかと面白く
思いましたよ。私にはなんとも言いようがなくて黙って笑ってましたけど。」
「そうか、民の気という大いなる流れか。」
「ええ。外国の言葉で言われると改めて大切さを感じますね。」
「龍脈をつかさどる皇帝としてはよい流れを作っていかなきゃな。」

「そろそろ休むか。」
ランファンに声をかけ寝室へ向かった。
忠実という点では申し分ないが、俺の臣下はあまり趣を解さない。
部屋に入るなり瀟洒な長手袋を外し、いそいそと寝支度を整えようとする。
色めいた空気に気づかぬふりをしたがるのは昔からあまり変わらない。
「どうぞ、お召し替えを。」
部屋着をチェストの抽斗から出そうとする彼女を右手で制した。
「まだいい。それより」
眼差しを向けるその呼吸で察したように動きが止まった。
息をのんで待ち構える姿は崩れそうにはかなく、しなやかにつよい。
そのまま顏を上向かせる。白い顎を持ち上げて唇を差し出させる。
やわく口づけると白檀が香った。
軽く胸を押し返されて顏を離すと、彼女は艶然とした微笑みをくれ手を俺の顏
に向かって伸ばす。
そのまま指が触れたかと思うと、ついと唇をぬぐわれた。
「おいたはここまでです。」
指には深い赤。彼女の唇を彩っていた紅。
そんなものを見せつけられても更に欲望を煽られるだけだ。
するりと背を向けようとしたところを腕の中に抱き込む。

「逃げないで。」
「だって。」
俯いた首筋にかかるおくれ毛。鮮やかな白と黒の対比に欲がちりちりと疼く。
「顔も向けないなんて冷たいじゃないか。」
「このままじゃジャケットに白粉がついてしまいます。」
「そんなこと気にするな。」
「お召し物の管理も私の仕事です。随行員を減らしたのはどなたですか。」
「俺だな。」
「では秘書兼護衛のお願いを聞いてください。」
「わかった。ではどうしたらいい。」