僕の中に息づく仁鶴さん
仁鶴さんの影響で現在も活動を続けている。1969年末、ヤングおー!おー!。カウボーイ姿でハガキを読まれている姿を見て虜になった。「どんなんかなぁー?」「うれしカルカル」「ごきげんよー!」「ナンエンカンエンチャンエンワッ!」独自のギャグが炸裂していた。僕は小学5年生で日本全体が翌年に控えた万博に向かっていた。高槻市民会館に仁鶴さん、三枝さん、可朝さんが来るのを見に行って、その勢いに憧れた。6年の時に僕が生まれて初めて買ったレコードは仁鶴さんの「大発見やぁ!」。B面の「仔犬のラメント」と共に何百回も聞いた。後に何度かご一緒させていただく宮川泰先生が両曲の作曲をされていた事を知るのは随分後の事だ。その前のシングル「おばちゃんのブルース」のペーソスにもやられた。歌声に魅力があった。1970年、万博開催の年にラジオ大阪の「ヒットでヒットバチョンといこう!」が始まる。仁鶴さんの水曜日とコメディNo. 1さんの土曜日が好きでハガキも出してバチョンバッグを2つもらった。朝日放送ラジオの「ABCヤングリクエスト」の名物コーナー「仁鶴頭のマッサージ」にも投稿して、ヤンリクノートとヤンリクボールペンをもらった。「仁鶴と遊ぼう!」や「ただいま恋愛中」も毎回見ていた。LPレコードで聞いた落語「初天神」「青菜」「ないもん買い」で落語に目覚めた。1972年「仁鶴の鼻ちょうちん」を出版された時、サイン会が旭屋書店大阪駅前店であり、父が旭屋に勤めていたので連れて行ってもらった。ずっと大切に本棚に並べてあり、8年前にNHKの「生活笑百科」に出演させて貰った時に、当時のサインの横に時空を越えて「タツオさん」と書いてもらった。
僕の地元大阪府茨木市。唯教寺というお寺で2か月に一度、桂枝雀一門勉強会「雀の会」が開かれており、高一から10数回通った。同時期に中央公民館で桂文珍勉強会も行われており、何度か通った。後に文珍師匠が「うちの勉強会毎回来てるからで弟子入り来よるかなぁと思てたら鶴光はんとこ行きよった」とおっしやっていた。僕は何処に行くべきか、逡巡していた。仁鶴さんが大好きだったが、すでにお弟子さんが5人おられ、誰かの一番弟子を狙っていた時に鶴光師匠大ブレイク!「笑福亭」は僕にとってヴィトンなみのブランド名である。しかも鶴光師匠はラジオの世界で爆進中だったので弟子入りを決行した。鶴光師匠夫妻は巨大な兄弟子、仁鶴師匠夫妻を強烈に意識しておられ、酔っ払って豊中の仁鶴邸の前で「仁鶴のアホー!」と叫んだりしたと言う話も聞いた。鶴光夫人がされていたスナック「モンキーズ」に仁鶴師匠がロールスロイスでふらりと現れた時、僕はバーテンをしていた。
1992年にリリースしたアルバム「天賦の才能」に収録した「アカペラな夜」の中に、僕が影響を受けた芸人さんの声をオマージュとして入れたいと思い、仁鶴頭のマッサージの一部分を使わせて下さい、とお宅に電話した時は、あっさりと「どーぞ」とお答えいただいた。
探偵!ナイトスクープ!で、何かのコメントをもらいに行った時、オフマイクで「師匠、もう、どんなんかなぁー!とか言わはらへんのですか?」と不躾に聞いてみたら「あんなんは、若い時にやるもんやねん」とおっしゃった。30代バリバリの仁鶴さんの強烈な波を浴びてこの世界に入った僕は、ご自身の喉のコンディションも含めて弾ける芸風から落ち着いて行かれる姿に少し寂しさも感じていたが、それは仕方のない事。
「大発見やァ!」のシングル版はさすがに6年生の時のヤツは行方不明になってしまい、USENのラジオに出演した時に、スタッフの方からいただいたお宝です。