ライブハウスメモリアルブックが2月刊行目指して編集を進めている

以下、僕が寄稿した原稿のダイジェスト


僕のライブハウスメモリアル

嘉門タツオ


 ライブハウスから出て来たと自負している。(中略)梅田バーボンハウスで「ITACHI」というバンドのステージを観てその迫力と破天荒さに圧倒された。ステージの合間に少し歌わせてと頼んだら、第1と第2ステージの間に10分だけ生ギターで歌わせてくれて交流が始まった。(中略)

 ITACHIのステージに飛び入りし出した頃、僕は有線放送プロモーターのバイトで食い繋いでいた。破門になりスキー場でバイトしながらツアー客の前で発表していた時のテープを、MBSヤングタウンのディレクター堀江さんが車の助手席に座ったアミューズの大里会長にたまたま聴かせてくれて(中略)バイトとして拾われた。「チャコの海岸物語」などをプロモーションする中、所属のサザンオールスターズがコンサートで関西に来る度にウチアゲを盛り上げに行き1982年、桑田さんが外国曲のカバーバンド「嘉門雄三&VICTOR WHEELS」のライブを梅田バラードで開催される際の前座に抜擢された。(中略)嘉門雄三バンドの演奏にバラード内は大いに湧き、ホールコンサートでは味わえない熱気が渦巻いた。その時僕は本名の「鳥飼(とりかい)達夫」を名乗っていたが、ウチアゲで桑田さんが『鳥飼』って名前は本書きみたいで固くない?」とおっしゃったので間髪入れず「じゃあ名前付けて下さい!」とお願いしたら「カメリア・ダイアモンドってのは?」と言われたので「それはイヤです」と断ったら「じゃあ嘉門もう使わないから使ったら」となって嘉門達夫が誕生したのだ。僕はその年にバラードで4回ワンマンライブをやらせてもらった。手書きのチラシに「桑田佳祐命名!嘉門達夫登場!」と書いて、アミューズの大阪事務所でコピーを取らせてもらい配布した。(中略)その後バラードはマンション建設の為クローズする事となり、活動の場は並びのバナナホール、至近のキャンディホールへと移る。キャンディホールには、やしきたかじん氏や、デビュー直後のダウンタウンもゲストで来てくれて、松ちゃん浜ちゃんと3人でコントをやったりもした。当時キャンディホールで収録した25歳の僕が歌う「一発屋ブルース」という動画はYouTubeの嘉門タツオ公式チャンネルで見てもらえる。(中略) 

 本来「密」である事で成立していたライブハウスは、コロナ禍の初期に随分悪者にされた。今回の事で立ち止まる事を余儀なくされたライブハウスの過去を今こそ検証し、未来へ問う良い機会と捉え、今後も時代と共に相応しい在り方を探りつつ歩を進めて行きたい。

 みなさん、またライブハウスで会いましょう!


(中略)だらけでしたが、本原稿はこの倍くらいあり、更に細かな事実描写を描きました。お楽しみに!当時のチラシに写真、ラインナップも一部ご覧下さい。

 

 https://readyfor.jp/projects/arm/announcements/150383