良いご縁

良いコラボ

   嘉門タツオの「愛めし」第9回「宮城に中華あり    楽・食・健・美-KUROMORI-



   旧知の「浅草龍圓」栖原シェフが、フェイスブックの投稿にまるで宝石を見つけたかのように黒森さんとの出会いを綴っていた。意気投合した2人は東京と仙台を行き来しては意見を述べ合い、コラボイベントも開催。僕の大好きな栖原シェフがここまで惚れるならばと思って初訪問したのだった。

   黒森さんは被災地のみなさんに温かいものを食べてもらいたいと東日本大震災直後に仙台に移住。楽・食・健・美 KUROMORI-の看板を掲げてわずか四年で地産地消の実践と功績が認められ、農林水産省の「料理マスターズ」に選ばれた。

   縁もゆかりもない土地だが、先ずは住んでみよう。高田馬場で餃子屋を采配していたノウハウを持ち込み、一人前380円で提供したところ毎日1200個売れたが働き過ぎがたたり、体調を崩して店を離脱。回復した頃に、たまたま空いた市内の居抜き物件に入って「KUROMORI」がスタートする。最初はリーズナブルなアラカルトの町の中華屋だった。常連さんから「地元のより良い食材を使って黒森の世界を確立すべきだ」というアドバイスを受け、宮城県下の生産者を訪ね歩き始める。高級中華に欠かせないフカヒレ、干し鮑に干しなまこは全て宮城県で豊富に獲れる。ところが一旦中国に渡って日本に入るという流通ルートが確立していた。何度も訪ねては熱い思いを語って説得した。徐々に雪解けがはじまり、今ではKUROMORI仕様のフカヒレを直に卸してもらえるようになった。肉も野菜も、全てそんな手順で信用を積み上げて来た。2016年には、広瀬川が眼下に望める高台に移転。コース一本に絞ったところ、その時々の最高の食材を使った料理が評判を呼び、宮城以外から食べに来るお客さんが増えた。伺う度に進化向上されていて目を見張る。

   東京時代は1つの店に2年続けて居ることなく水面を跳ねて行く飛び石のような料理人だったが、仙台に来て視野が開けた。自分がやるべき事が明確になって力強さが増した。

   メニューには宮城県の地図と食材の産地が記されていて、ああここで作っているのかと一目瞭然なのもとても良いアイデアだ。

  中華は宮城が面白い!と全国に轟くのは時間の問題だ。


嘉門タツオの「愛めし」

36回「 明るい  楽しい  美味しい      龍圓」 



   浅草龍圓に初めて伺った時、栖原シェフに「嘉門さんのファーストアルバムのジャケットの写真の人は中学の先輩なんです」と言われた。サザンオールスターズのアルバム「人気者で行こう!」パロディで「お調子者で行こう!」と名付けたアルバムだった。そんな会話から始まったお付き合いも、もう15年になる。10年前の結婚パーティーでは焼売を500個プレゼントしてくれて、今年の還暦パーティーの時も調子に乗ってお願いしてみたら、ホタルイカのペーストを練り込んだ特製焼売を350個いただいた。いつも明るく、熱心に語る栖原さん。お父さんは普通のサラリーマンだったが、食べる事が大好きな人だった。築地にお墓があったので、御墓参りの帰りにはよく銀座に食事に連れて行ってもらったそうだ。小学生の時に中華第一楼のフカヒレスープと餡掛け焼きそばを食べて衝撃を受け、中華方面に進路の舵が切られた。高校時代のバイトは全て飲食店で、卒業後中華料理店に就職し、29歳で独立する。最初は町の中華料理屋だったが、様々なジャンルの料理人と交流する中で意識が高まっていった。化学調味料無しの方針に切り替え、直接生産者に会いに行く様になる。美味い野菜は土壌や気候も大事だが、どんな人が作っているのかが最も大切であると気付く。農家には偏屈でコミニュケーションが苦手な変わり者が多いらしいが、1度打ち解けると誠心誠意接してくれるそうだ。栖原さんが目指したのは本場の中華料理ではなく、日本の食材を使って日本人が作る料理。食材や調理法を追求し構築していったところ、中国料理の範疇に収まるのも窮屈になったので、10年前から「中国小菜」の前置きを外して「龍圓」のみにした。メニューもコースオンリーになり、栖原ワールドを理解してくれるお客さんにだけに料理を供している。25年をかけて少しずつ理想の形を築き上げて来た。今後も更にブラッシュアップを続けるとのこと。同時代を共に生きたい料理人だ。あ、先日店の前で開店を待っていると、還暦を迎えた僕が初めておまわりさんから職質された。ギターケースの中もしっかり調べられた。片栗粉入ってなくてよかったですねと栖原さんも苦笑い。