3300字あります

   月刊住職  原稿


   念願は人格を決定す   継続は力なり


                                             嘉門タツオ  


    24歳でレコードデビューして36年、今年還暦を迎えました。16歳で笑福亭鶴光師匠に弟子入りして21歳で破門。落語家がスタートだったのですね、と当然聞かれますが、振り返ってみると自分なりにいろいろ考えて歩んで来た様に思います。

   小学校3年生の時の担任、吉原先生の影響が大きかったとつくづく思います。先生は毎日のように「念願は人格を決定す、継続は力なり」という言葉を繰り返し音読し、この言葉を覚えておきなさい、とおっしゃいました。子供だった僕は言葉の真意は理解出来なかったものの、しっかりと記憶の襞に刷り込まれました。30歳を越えた頃から実感を伴い少しずつ意味が判り始め、それは仏教家の住岡夜行氏の詩歌の一部である事を知りました。その全文を近年になって初めて読んだのですが「とにかくひとつの道をひたすらに行きなさい」というメッセージが熱く記されていました。僅か8歳の時に教わった言葉を還暦を目前にして、ようやく腑に落とす事が出来たのです。吉原先生は当時大学を出たばかりの熱血漢で、体制に抗う姿勢で教壇に立っておられました。授業のマニュアルを嫌い独特の図式を使って算数を教えたり、3年生の国語の教科書に、まだ平仮名で書かれている部分を可能な限り国語辞典で調べて漢字に変換し、それをテストに出したり、図工では絵の具以外の物を使って絵を描くという授業もありました。その時僕はマヨネーズ、ケチャップや母親の香水などを混ぜ合わせ、異臭を放って教室の隅に追いやられましたが。時を同じくして、川端康成氏がノーベル文学賞を受賞されました。僕が生まれ育った大阪府茨木市は、氏が幼少期を過ごした町でもあり大いに湧きました。吉原先生は僕の国語の成績をいつも褒めてくれました。子供は褒められるともっと褒められようと思うもので、夏休みの読書感想文を13本書いて9月に提出すると、やはり先生はみんなの前で褒めてくれました。そして国語ばかり勉強する様になり、当時の作文に「将来は川端康成さんのような文学者になりたいです」と書きました。その後吉原先生は教壇を降りて仏教大学に再入学され、僧侶として活動されたのちに現在は地元の広島市内で哲学の勉強をされています。

   吉原先生の洗礼を受けた後、僕は徐々に音楽にも惹かれていきます。最初に衝撃を受けたのはフォーククルセダース  の「帰って来たヨッパライ」でした。なんだこの面白い歌は!とハートを掴まれました。その後もラジオから流れてくる面白系の歌に魅力を感じました。高石ともやさんの「受験生ブルース」、ソルティーシュガーの「走れ!コータローー」、泉谷しげるさんの「黒いカバン」や、なぎら健壱さんの「悲惨な戦い」など、みんなギターを弾いて歌っていました。そして中学2年の時、あのねのねの登場に度肝を抜かれました。2人もやはりギターを弾いていました。人から与えられた歌ではなく、自分で作った面白い歌をギターを弾きながら歌うというスタイルに憧れ、お年玉でギターを買って自分で歌を作り始めました。同級生の中澤君と一緒に日曜日になるとカセットテープにせっせと録音し始めたのです。中学高校で60曲のオリジナルが生まれました。ラブソングやメッセージソングの真似事もありましたが、友人にウケたのは、学校から帰って来ると親戚のおばちゃんが遊びに来ていて「まー、たっちゃん大きくなったわねぇー!」と毎回の様に言われるのが鬱陶しい、という気持ちを歌ったりした面白系の歌でした。中3の時には地元の公民館でコンサートもやりました。面白いフォークシンガーに憧れてはいたのですが、自分の歌ではまだまだ世間に通用しないと思い、まずはいろんな歌を教えてくれたラジオの世界に入って勉強したいと考えました。16歳の時に当時ラジオで人気急上昇中だった鶴光師匠の門を叩きました。大好きで良く聴いていた毎日放送ラジオの「ヤングタウン」の仲間に入りたい!それには鶴光師匠の所に行くのが最適だと考えたのです。ヤングタウンのメンバーには鶴光師匠の他に桂三枝(現文枝)さん、杉田二郎さん、谷村新司さん、まだ若手だった鶴瓶さんやさんまさんも居て、音楽と笑いが溢れていました。有難い事に19歳の時に師匠の口利きでオーディションを受けさせてもらってレギュラーの座を獲得しました。しかもあのねのねの原田伸郎さんがメインパーソナリティーの曜日の、サブメンバーとしてです。毎週スタジオに行くのがとても楽しみで、張り切ってワクワクしながら師匠宅から出掛けました。その時に気付いたんです。自分は落語家になりたかったのではなく、ヤングタウンという場所に来たかったんだと。そうなると内弟子修業で掃除や洗濯をする事に疑問を感じ始め、師匠のお宅に行く事を拒んだりした結果破門になってしまいました。ヤングタウンも降板となり大阪に居場所がなくなって放浪の旅へ出ました。スキー場でバイトをしている時にお客さんの前でギターを弾きながら再び歌い始め、これからはこれでやって行こうと決断しました。ヤングタウンのプロデューサー渡邊さんに復帰の筋道を付けてもらい、桑田佳祐さんの前座を経て「嘉門達夫」としてデビューしました。それから今日まで、音楽と笑いの融合の確立を目指して36年間歌って来ました。歌があるべき事柄には歌を作るべきだと思っています。自発的に歌う事もあれば、依頼されて作る事もあります。5年前には新宿東口商店会で飲食店を営む友人から「客引きやキャッチが多くて困っている、歌の力でなんとかしてもらえませんか?」と頼まれて「ぼったくりイヤイヤ音頭」を作り街頭で流したところ効果が出て、それを聞きつけた錦糸町、渋谷センター街からもオファーが来て現在も各所で毎日流れています。3年前には横浜常照寺の伊東上人から「墓離れが激しいのでお墓参りに行きましょう、という歌を作ってもらえませんか」と頼まれ、そういう歌は今までなかったな、と思って作ったのが「墓参るDAY」です。制作する中で、お墓の内側からのメッセージソングもあった方がいいと思い、忙しいとは思うけど時々は会いに来てほしい、けっして風になんかなるつもりはない、そこに居るから、と歌った「旅立ちの歌」が出来ました。更に送る側からの歌も必要と思い「HEY!浄土」が生まれました。この3曲を『終活3部作』と名付けて、昨年アルバム「HEY!浄土〜生きてるうちが花なんだぜ〜」をデビュー35周年to還暦記念アルバムとして発表しました。それに伴い、お寺参りツアーと名付けたお寺でのライブや、セレモニーホールで歌う機会も増えました。全国のお寺を巡って歌っていると、都会のコンサートには中々足を運べない地元の皆さんが集まってくれて、熱心に僕の歌に耳を傾けて下さいます。元々琵琶法師は世相を切り、お坊さんの説法が落語の原点であったと聞きます。お寺とは本来、地域の皆さんが集い、ご先祖様に思いを馳せながら大いに笑う場所でもあったのです。このアルバムには、どう生き、どうこの世を去るかというメッセージが明るく詰まっています。還暦にしてようやく、そんな世界を歌える様になったのだと実感しています。今回の「月刊住職」さんからの原稿依頼をはじめ「月刊石材」「寺社ナウ」「中外日報」や浄土宗、日蓮宗に延暦寺など、今までになかったメディアからの取材も随分していただいています。今後は、介護をテーマにした歌なども歌いたいですし、死ぬ前にやっておくべき事柄を啓蒙する歌も必要だと思っています。加齢と共に弱りゆく自身の肉体や精神ですら、面白おかしく歌うべきだと考えます。年を重ねる事はマイナスではなくプラスであり、辛い現実の中にも救いのあるホッとしてもらえるテーマが必ずあると思っています。80歳を越えても、その年齢のリアルな感情を歌い続けたいのです。それが僕の念願であり、継続して来た事が力になったと納得し、人生の幕を降ろしたいのです。そんな心意気で、これからも移りゆく時代の中で、しなやかにみなさんに楽しんでもらえる歌を歌っていく事が人格の形成であると思っていますので、どうぞ末永よろしくお願い致します。