嘉門タツオの「愛めし」

47回「 日本料理界の偉人   京味」


   西健一郎さんに心から哀悼の意を表したい。京味さんへ伺って10年の新参者の僕に対しても、いつも丁寧に対応して頂いた。店に入るとまずナプキンを首から掛けて下さるのが面映く嬉しかった。最初に伺った時、茄子のヘタを油で揚げた後に、甘辛く煮て黒胡麻で和えた「うてなの胡麻和え」という料理が出て来てヘタですか?と聞くと微笑みながら「実の方は賄いにします」とおっしゃっていたのが印象的だ。ご自身も積極的に外食に出掛けられ、目黒の焼き鳥屋「鳥しき」に初めて行かれた直後に、いかに良かったかを熱く語っておられた姿も忘れられない。お弟子さんも多く、皆さん各々が独り立ちして活躍をされている。ご自身が、お父様に料理人として育ててもらったという意識を強く持たれていたのだろう。お父様は、料理人番付西の横綱の異名を持つ西音松氏だ。伊藤博文の側近から総理大臣にもなった西園寺公望氏の料理人を務められていた。西園寺氏の食通ぶりは、かの魯山人も文章に残している程だ。西さんが17歳の時「料理人になれ」と言われ修業に出る。30歳の時に東京で独立するが、本当にお客様に満足していただいているのかと疑心暗鬼になり、既に引退されて丹波で暮らしていた70歳を過ぎたお父様に両手を付いて料理を教えて下さいと頼みに帰った。終始無言だったが、新幹線の切符を置いて帰り当日東京駅で待っていると、両手に調理器具を抱えたお父様が降りて来られた。それからは月の半分は調理場に立ち、言葉はほとんど交わさないが、様々な仕事をお亡くなりになる直前の86歳の時まで見せて下さったという。旬の素材に味を足すのではなく、あくまでもこちらから迎えに行くのが料理である。変わったものと美味しいものとは違うという教えを受け継ぎ、西さんは自分の弟子にも同じように伝えられた。

   故郷の丹波で若い時に知り合ったという女将さんは、私の好きな鯛の頭を炊いたんをよう作ってくれました。娘さんは、運動会に白衣でお弁当を届けに来るのが恥ずかしかったけど、今はとても有り難かったと思っていますと。多くの味と人を残された西さんの教えは、こらからも脈々と受け継がれていくだろう。