嘉門タツオの「愛めし」
第37回「 奥深い麻辣の海 蜀郷香」

四谷荒木町にある四川料理の蜀郷香(しゅうしゃんしゃん)。いつ伺っても新たな料理を出してくれる大好きな店だ。フィナーレは毎回定番の四川春雨、麻婆豆腐と四川炒飯。炒飯と麻婆を口腔内で合わせると、複雑な奥深さとなって舌と脳みそは昇天する。その辛さで痺れた舌を復活させてくれるのはロゼワインがベストだと思っている。そして再び麻辣の海に漕ぎ出すのだ。秋口になると火鍋のシーズンの到来だ。鴨ビール、薬膳白湯と激辛麻辣の3種のスープをこだわりの具材を泳がせながら行き来するのが楽しい。
シェフの菊島弘従さんは40歳。和食や広東料理を経て、20歳の時に四川料理界の巨匠、趙楊氏に師事する。料理長に就任した後に独立し、もうすぐ10年になる。フロアは6歳年下のマダムが切り盛りする。年に1度シェフとマダムは本場四川へ。食材や香辛料を調達し、スーツケースにパンパンに詰めて帰国する。意外にも2人の出会いは料理とは関係のないレゲエイベントだった。出逢った頃マダムは花屋に勤めており、まさか料理人の妻になるなんて思ってもいなかったそうだ。メアドを交換して交際がスタートしたが、最初のうちは今後どうするべきか思いあぐねていた。しかしある日、シェフが本場の四川料理を作ってくれて食べたところ概念が180度変わった。こんな奥深い辛さがあるのか!この人の力になりたいと決心した。店を立ち上げ8年経った頃、子宝に恵まれた。偶然僕が予約を入れていたある日、店に向かっている道すがらにシェフから電話があり、妻が産気づいて苦しんでいるので直ぐに病院に行かなければなりません。今夜の予約をキャンセルしてもらえませんかと頼まれたので快諾。翌日シェフから、昨日はすみませんでした、無事に産まれて母子共に元気ですと電話があった。それは何より、おめでとうございますと言うと、妻にはお客さんをキャンセルした事を内緒にしてもらえませんかと頼まれた。お客様に迷惑をかける事を最も嫌うと言われたので、わかりましたと笑顔で答えた。父となったシェフは更に力強さを増してきた。出産の日にキャンセルした事は後日バレたが、難なく収まったそうだ。めでたしめでたし。