嘉門タツオの「愛めし」

36回「 明るい  楽しい  美味しい      龍圓」 



   浅草龍圓に初めて伺った時、栖原シェフに「嘉門さんのファーストアルバムのジャケットの写真の人は中学の先輩なんです」と言われた。サザンオールスターズのアルバム「人気者で行こう!」パロディで「お調子者で行こう!」と名付けたアルバムだった。そんな会話から始まったお付き合いも、もう15年になる。10年前の結婚パーティーでは焼売を500個プレゼントしてくれて、今年の還暦パーティーの時も調子に乗ってお願いしてみたら、ホタルイカのペーストを練り込んだ特製焼売を350個いただいた。いつも明るく、熱心に語る栖原さん。お父さんは普通のサラリーマンだったが、食べる事が大好きな人だった。築地にお墓があったので、御墓参りの帰りにはよく銀座に食事に連れて行ってもらったそうだ。小学生の時に中華第一楼のフカヒレスープと餡掛け焼きそばを食べて衝撃を受け、中華方面に進路の舵が切られた。高校時代のバイトは全て飲食店で、卒業後中華料理店に就職し、29歳で独立する。最初は町の中華料理屋だったが、様々なジャンルの料理人と交流する中で意識が高まっていった。化学調味料無しの方針に切り替え、直接生産者に会いに行く様になる。美味い野菜は土壌や気候も大事だが、どんな人が作っているのかが最も大切であると気付く。農家には偏屈でコミニュケーションが苦手な変わり者が多いらしいが、1度打ち解けると誠心誠意接してくれるそうだ。栖原さんが目指したのは本場の中華料理ではなく、日本の食材を使って日本人が作る料理。食材や調理法を追求し構築していったところ、中国料理の範疇に収まるのも窮屈になったので、10年前から「中国小菜」の前置きを外して「龍圓」のみにした。メニューもコースオンリーになり、栖原ワールドを理解してくれるお客さんにだけに料理を供している。25年をかけて少しずつ理想の形を築き上げて来た。今後も更にブラッシュアップを続けるとのこと。同時代を共に生きたい料理人だ。あ、先日店の前で開店を待っていると、還暦を迎えた僕が初めておまわりさんから職質された。ギターケースの中もしっかり調べられた。片栗粉入ってなくてよかったですねと栖原さんも苦笑い。