長いよー。自己最長インタビュー。

インタビュー

 

――「墓参るDay♪」「旅立ちの歌」「HEY!浄土」の“終活三部作”(今年リリースのアルバム「HEY!浄土~生きてるうちが花なんだぜ~」収録)は墓石業界や供養産業にとってとても勇気づけられる作品だと思います。なぜ今回、お墓参りや終活をテーマに歌を作られたのかをお聞きしたいと思います。

 

嘉門 デビューして今年で三十五年になりますが、ずっと「こういう事柄は歌うべきだ」「歌があった方がいい」と思う物や事象に対して歌を作って活動して来ました。みんなの共通体験や、気になっている事を歌にすることで、メッセージがより伝わる。そういう力があると思っています。

 僕はフォークを聴いて育ったので、反戦歌などのメッセージソングに圧倒的な影響を受けました。社会の流れの中で「俺はこう思う」「こう生きる」という自分の意志を歌う人たちの活動に憧れて、僕もそうありたいと思ってやって来ました。

 例えば、四年前に新宿東口商店街で飲食店を経営する友逹に「客引きとぼったくりが横行して困っている。歌の力でどうにかならないか」と相談されて出来たのが「ぼったくりイヤイヤ音頭」という歌です。新宿東口では二〇一五年の暮れから毎日、十五分に一回流していますが、その効果が明らかに現れてぼったくりと客引きが減ったそうです。評判を聞いて今度は錦糸町駅南口でも流すようになり、いまは渋谷センター街でも流れています。それも「歌があったほうがいい」という取り組みにマッチした訳で、歌の力だと思います。

 また、前作のアルバム「食のワンダーランド~食べることは生きること~其の壱」(二〇一六年)は全部食べ物の歌を収録したのですが、その中の「炎の麻婆豆腐」という歌は、麻婆豆腐が大好きな人達の熱い思いを形にしました。麻婆豆腐について熱く語り合う「麻婆十字団」というコミュニティーの公式ソングにもなっています(笑)。

 そういう「歌があったほうがいい事象を歌おう」「必然性のある事を歌って行きたい」という姿勢が、この三十五年間の活動の根幹になっているんです。

 それで昨年の年明けライブの打ち上げの時に、友人の石材店さんに会場を手配してもらったのですが、その方を通じて横浜・常照寺の伊東政浩上人と出会いました。伊東上人から「今はお墓離れ、葬儀離れが深刻で、それどころか電車の網棚や駅のコインロッカーにお骨を置き去りにする人も居る。このままでいいのかと非常に危惧される。“お墓参りに行こう”というメッセージの歌をつくってくれませんか」と依頼されたんです。

 

――常照寺さんではライブも開かれましたが、それがきっかけだったんですね。

 

嘉門 そうなんです。まさに「そういう歌は必要だ」と思いました。そして「墓参るDay♪」を作った後に「旅立ちの歌」が出来るんですが、「たまには会いに来て欲しい。風になんてなるつもりはない。そこ(お墓)にいるから」という詞にしました。「そこに私はいません」という歌がありますけど、いや、確かにいないかも知れないけれど、みんな「いる」と思って(お参りに)行くんですよね。その行為の尊さをもっと訴えていくべきだろうと。そこには非常に重要なテーマが孕んでいます。

 

――決して深刻ではなく、とても明るく楽しい歌で素直に聴けますね。

 

嘉門 清々しく、みんなで明るく「お墓参りに行こう!」と歌える歌にしたいと思いました。となると、タイトルは「墓参るDay♪」しかないなぁと。というのも、かつてアルバム「NIPPONの楽しみ」(一九九三年)に「英会話教室」というトラックを入れていて、アメリカ人の先生と僕とのやりとりで、先生が「Don't Worry(ドントウォーリー)」と言うと、僕が「道頓堀(どうとんぼり)」、「Have a Nice Day(ハヴァナイスデー)」というと「墓参るでぇ」と、全部間違えて応えるネタなんです(笑)。だから、まずタイトルは「墓参るDay♪」しかないと(笑)。

 それで、最後にはみんなで「お墓参りに行こう!」と歌えるように、みんなが知ってる曲に乗せた方がいいと思い、最初は「春の小川」(唱歌)に乗せて「お墓に行こうよ、お墓に行こう♪」と歌っていたんですが、「待てよ?これは第九(ベートーヴェン「交響曲第九番」)でもいけるな。そのほうがスケールも大きい!」と思い直して、第九に乗せて、「お墓に行こうよ、お墓に行~こう♪」と歌う事にしました(笑)。

 それと同時に、僕も何人か送ってきた経験があるので、今度は送られる側の人って、どんな気持ちなんだろうと考えたんです。それで作ったのが「旅立ちの歌」です。「マイ・ウェイ」(アメリカ、歌手フランク・シナトラで大ヒット)みたいに壮大に我が人生を称えてほしいという表現ではなくて、「まだやり残したことがあるんやけど……」と、ちょっと未練がましい気持ちも含ませていて、一番はまさに「送られるその時の思い」を歌い、二番は「たまにはお墓に会いに来てね」と歌っています。

 そして「墓参るDAY♪」と「旅立ちの歌」の二曲が出来た時に、阿木耀子さん(作詞家、女優、小説家)と対談させていただく機会があって、それらの歌の話をしたら、阿木さんが「主人(宇崎竜童さん=歌手、作曲家、俳優)の弔辞の評判が良くて、すでに予約も入っているのよ」とおっしゃったんですね。「それはすごい。送る側の人の思いも歌わなければ」と思って作ったのが「HEY!浄土」。その三曲が自然にポンポンポンと生まれて、“終活三部作”と名付けました。

 

――アルバム(「HEY!浄土~生きてるうちが花なんだぜ~」)にはその他の楽曲も入っていますね。

 

嘉門 すべて生と死に関する楽曲を収録しています。例えば「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズのデビュー・シングルで代表曲)のカバーも入れたいなと思い、北山修さん(ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーで同曲作詞)と懇意にさせていただいているので、スペシャルゲストとしてレコーディングに参加していただきました。また、さくらももこさん(「ちびまる子ちゃん」でおなじみの漫画家、今年八月逝去)が好きだった「法事ブギ」(一九八六年リリースのアルバム「日常」収録)も入れられるな「タンバでルンバ」(八八年リリースの「エエトコドリベストアルバム」収録)もありだなと、構成しました。

 つまり、「どう生きて、どう亡くなるか」というコンセプトアルバムが出来上がったのです。

 そして、そのきっかけをつくっていただいた横浜・常照寺で今年の春のお彼岸にライブを開き、そのお寺の知り合いの群馬県桐生市の鳳仙寺でもライブを行ない、そういう活動が宗教・供養業界の新聞や雑誌で紹介され、そしてこの『月刊石材』の取材に繋がりました!(笑)

 

――ありがとうございます!(笑) お寺でのライブはどんな感じでしたか? 写真を拝見すると、みなさんとても盛り上がっていますね。

 

嘉門 本堂のご本尊の前で歌わせていただきましたが、当然、境内にはお墓がいっぱいあり、そういうところで「お墓参りに行こう!」と歌うのは、とてもリアルで、意味のあることだと思いました。

 常照寺の時は春彼岸の法要と合わせたので、ほとんどが檀家さん。鳳仙寺の時は檀家さんと、地域の方々と半々くらいで、どちらもみんなで歌って、中には涙ぐんでくれる人もいらっしゃいました。どなたか特定の故人を思い出されていたのだと思います。

 

――お寺でライブを開くことに、何か抵抗感のようなものはありませんでしたか?

 

嘉門 それはないですね。他にもジャズコンサートなどを積極的に開いているお寺もありますし、そもそも琵琶法師は世の中のことを歌っていましたからね。それにお寺は本来、その土地のコミュニティーとして、寺子屋があったり、それこそお墓参りに行くなど、人々が集まる場所でしたよね。ライブには「嘉門タツオの歌が聴けるよ」といって、お子さん、お孫さんも大勢連れて来ていただきました。

 

――まさに現代の琵琶法師のようですね!

 

嘉門 ちょうどNHK大河ドラマが「平清盛」の時、広島県から「ひろしま清盛隊・平成の琵琶法師」に任命していただき、「ゆけ!ゆけ!平清盛!!」というPR曲を作ったんですが、その時に改めて琵琶法師について調べたら、彼らは当時の世相を歌ったり、民衆を弾圧する権力者を揶揄して歌ったりしていたんです。何か共通するものがあるのかも知れませんね。

 

――「墓参るDAY♪」では「一番大事なのは感謝の気持ち」「お墓参りに行くと心も晴れる」と歌われています。とても大事なことですが、これは嘉門さんが元々持たれていた感覚ですか?

 

嘉門 そうですね。歌詞は自然に生まれてきました。

 三十代、四十代では、まだ歌う必然性がないし、その域にも達していないけれど、デビューして三十五年が経って、来年は還暦。ようやくその域の歌を歌えるようなところに来たのかなと感じています。ずっと続けているその先に、このお墓や供養、終活のテーマがあったということです。まださらにこの先にも歌うべきテーマがあるだろうと思っています。

 

――どなたかの死に対して、今までで印象的な思い出や経験はありますか?

 

嘉門 僕自身の経験で印象的な事が三回あります。

 一つは父の死です。もう十五年前になりますが、食道ガンの末期で、その時僕はすでに東京を中心に暮らしていたので毎日お見舞いに行けず、大阪に住む弟が父の様子をビデオで毎日撮影してくれていたんです。そう、父が亡くなるまでの十八日間。

 例えば、ヘッドフォンで父の好きだった東海林太郎さん(故人、歌手)の歌を聴かせると、父も明るく歌ってサービスしてくれたりね。そんな様子を全部ビデオに記録して、僕は立ち会えなかったんですが亡くなるところも撮れていて、父は自分の人生を「よく学び、よく遊び、なかなかようやった人生やった」と振り返り「あと五年は生きるぞ!」といいながら逝くんですよ。

 それを編集して、お通夜の時などにみなさんに見せたんですが、本人が「ようやった人生や」と言っている映像を見て、みんなも「よかったな」と思って送ってくれたんですね。

 父が亡くなった翌年に、幼稚園からの幼なじみの高倉君が肺ガンの末期で余命三ヵ月と宣告されて、お見舞いに行くと「おもしろい葬式にしたい」「辛気臭いのはいやだ」というので「父の時みたいにビデオを撮る?」と聞くと「頼むわ」と。それで葬儀で流す本人の挨拶などを撮影して、彼の歌を作ったり、同窓会を開いて初恋の人を連れて来たりして、彼を送りました。その様子は私小説『た・か・く・ら』(扶桑社、二〇〇七年)に書いてドラマにもなりました。それが二回目です。

 そして僕の恩人で「MBSヤングタウン」という伝説のラジオ番組のプロデューサーの渡邊さんがその物語を読んでくれて「こんな素敵な話、聞いたことない!」と誉めていただいたんですが、二〇一〇年に「俺も高倉君と同じ病気になった」と電話があったんです。

 その時もご本人の希望でビデオを廻しました。渡邊さんは桂文枝師匠、笑福亭鶴光師匠、笑福亭鶴瓶師匠、谷村新司さんとか、いろいろな凄い方を育てたので、その当時を振り返るインタビューを撮ったりして。その中で谷村さんと同時期にデビューした金森幸介さんというフォークシンガーがいらっしゃるんですが、「そういえば幸介はどうしているかな」と渡邊さんが気に掛けていたので、僕も幸介さんは高校のときにすごく好きで聴いていたので、「幸介さんと僕がライブをやったら見に来ますか?」と聞くと、「それは何よりも見たい!」と。それでそのライブが実現し、渡邊さんも実際に見に来てくれたんですが、それが最後の外出になったんです。そのエピソードは『丘の上の綺羅星』(幻冬舎、二〇一五年)という物語にして書きました。

 そういう父と、高倉君と、渡邊さんの最期を送ったわけですが、遺される者にとって、これから逝く人をどう送るかということはとても大事だということを経験値として持っていたので、今回の“終活三部作”は自然な流れのなかで出来上がりました。

 

――ご実家のお墓はどのようなものですか?

 

嘉門 父方の祖母が亡くなったのが約三十五年前で、それ以前のお墓は香川県高松市にあったそうなんですが、戦後の区画整理などでお墓が行方不明になって、祖母は納骨堂(京都・東山浄苑東本願寺)に納骨しました。でも二十数年前に菩提寺(大阪府茨木市・称名寺)に、父と僕とでお墓を建てまして、そこへ祖母を改葬し、今は父と祖母が入っています。

 

――どうしてもお墓の雑誌なのでお聞きしますが、称名寺にお墓を建てるに当たって何か考えたことはありますか?

 

嘉門 丁度お寺の鐘楼の横の墓所で「いい物件が出た」という知らせがあって、ならば、と言う感じでしたね(笑)。石選びなどに僕は一切タッチしていないから、どこの何という石なのか、詳しくはわからないんですが、そういうことも本当は知識としてあった方がいいのかなと、この取材を受けながら思っているところです。

 それこそお墓の石の価格、相場なんて、僕らは把握していないわけです。石の種類もわからない。棺でも、二万円のものもあれば五十万円のものもある。でもそういう既成のものから選ぶだけではなく、故人が生前に「自分はどこに、どのように入りたいか」という、もっといろいろな希望や明るいオリジナリティーを発揮してもええんちゃうかな(笑)。「(棺には)お父さんが好きだった写真を入れてあげよう」とか、遺された人の意志で工夫していますが、そこにもう少し、本人の主張があってもいいですよね。

 お葬式も、具体的なそれぞれのお値段とか、わからないことがいっぱいありますけど、それを誰かが亡くなってから知るのでははく、もっとスケルトンにしておいて、みんなが把握できるようになっていればいいなと思います。それこそそういう歌があってもいいですよね。あまり説教臭くなく、明るく楽しく自分の最期を考える。それは作ってみたいですね。

 

――お墓参りにはどのくらい行かれますか?

 

嘉門 東京に住んでいますが、菩提寺には年に三~四回は行っていますし、妻の実家のお墓参りも欠かさず行っています。お墓って、夏場は暑いから花がすぐに枯れてしまいますね(笑)。母は健在なので、「ちょっと花を替えといたで」というと喜ぶじゃないですか。それは何やろうね、母にしても「ここに入る」という意識を持っているから、「私が死んでも花を替えてくれるんやね」と思ってくれるのではないかな(笑)。そういう親孝行的な要素もあります。

 ゆくゆくは僕も入る事になるのかも知れませんが、そのときには何かちょっとおもしろいことにしたいんやけどなぁ(笑)。

 

――これはぜひお聞きしたかったことの一つですが、嘉門さんが新しくお墓をつくるのなら、どんなお墓にしますか?

 

嘉門 ボタンを押したら、自分の歌が流れるというのもいいんちゃいます?(笑) 何曲か入れておいて、「?」マークのボタンを押すと、「チャラリ~墓からお化け~♪」って流れて、「ギャー!!」とか言ってね(笑)。あるいは、LEDライトが付いていて、エレクトリカルパレードみたいに賑やかなお墓とか。隣りの人から「静かにしてもらえませんか!」ってクレームが来たりして(笑)。

 僕は今、レギュラーのラジオ番組で「どんな曲で送られたいか」を考えるコーナーをやっているんです。きっかけは、宮川泰先生(一九三一二〇〇六年、作曲家)が亡くなった時、出棺の際にご自身が作曲した「宇宙戦艦ヤマト」で送られたんですよ、ブラスバンドでね。それを聴いて「あぁ、いま先生はイスカンダルへ行ったんやなー」と感動したんです。

 それで、その企画で、サザンオールスターズの桑田佳佑さんはヒット曲が多いからどうしようとか、勝手に考えてるんです(笑)。メドレーで「勝手にシンドバッド」「いとしのエリー」「TUNAMI」を流して、最後は「希望の轍」にしようと、勝手に決めて(笑)。でも、故人を送るのにふさわしいのはどの曲かちゃんと考えているコーナーなんですよ。

 それでぼくの場合アルバム「食のワンダーランド~食べることは生きること~其の壱」の最終トラックに「火を通せば大丈夫」という作品があって、これは夏場でも食べ物にちゃんと火を通せば大丈夫ですよというネタなんですけど、それで送ってもらえば「火を通せば大丈夫~、ポーン♪(木魚の音)」とかね(笑)。その後に「旅立ちの歌」と「明るい未来」(アルバム「HEY!浄土~生きてるうちが花なんだぜ~」収録)を流すかな。

 そういうこともエンディングノートというか、今のうちから考えるのは楽しいですよね。

 

――お参りしない散骨など、従来のお墓ではないものをどう思いますか?

 

嘉門 どうやろうね。その人の人生観やし、難しいですね。でもお墓参りって、そこを目指して、その人のことを思って行くわけですから、やっぱりお墓があったほうがわかりやすいですよね。

 曽祖父母の代までさかのぼると、両親の上に十二人のご先祖様がいるんですよね。ぼくの父方の祖父はある日「呑みに行って来るわ」と出掛けたきり、今だに帰って来ていないんですが(笑)、そういうこともあって、ぼくは父に家系図を書いてもらったので、ひいじいちゃんもひいばあちゃんも名前をわかっていますが、普通は知らない人が多いですよね。

 でも、ご先祖様がいるからいまの自分があるということを伝えることはとても大事ですし、自分が生きていることを確認できる場所として、お墓は必要と思います。

 

――業界としては、お墓離れをいかに食い止めるかということが課題です。何かヒントや元気をいただけますか?

 

嘉門 お墓も伝統の上に成り立っているものやから、そんなに大きく変革すればいいか、という事でもないとは思います。

 でも石といえばお墓だけではなく、石畳やお城の石垣、石橋など、石でなければ出来ない物がいっぱいあるんですよね。駒沢オリンピック公園(東京都世田谷区)の敷石は、かつての都電の軌道に使われていた石を敷き詰めていて、そういう使い方はとてもいいなと思いますね。枯山水、石庭も日本のすばらしい石文化ですよね。

 そう考えると、確かに石はなくてはならない存在で、だからもっと石のことを考えてもいいと思いますね。それは本当に“石の歌”というのがあってもいい。うん、ご依頼ございましたら、喜んで制作いたしますよ(笑)。

 

――それは心強いですね(笑)。今後はもしかすると、お墓の石とか、お墓づくりに関するような歌も作られたり?

 

嘉門 お墓とか棺は、みんなが入るものなのに、普段その素材のことなどはあまり考えていませんから、「こういうお墓に私は入りたい」というようなことを、もっとわかりやすく歌ってもいいかも知れないですね。

 高松市にはイサム・ノグチの工房があって、やっぱり石に惹かれていたのでしょうし、大谷石(栃木県)や竜山石(兵庫県)なども、あの山の景観は凄いですよね。石は、僕らが生まれる何億年も前からあるわけですから、その山肌を見るだけで、石の持つ力をとても感じます。うん、石そのものが持つ力やね。

 そういう事も含めて、お墓とか石の歌を考えてもいいかも知れませんね。

 

――本日はお忙しいなか、貴重なお話をありがとうございました。

(聞き手=編集部・安田寛)