あ、ついでにブログも。

あ、ついでにブログも。

素敵なオジサンにまつわるエトセトラ。ようは、わりとよくあるタイプのブログ。

Amebaでブログを始めよう!

このあいだ…


カモメです。


救われた試しもないのになんとなく神に祈ってみる。


死の恐怖から逃れるためなんとなく神を信じてみる。


とくに救われたくも死の恐怖も感じないけどお正月にはなんとなく初詣してみる。


そんな頭の軽い信仰心は別に変でないのに


ミュージシャンやアーティストを神だとか


崇めると、なんとなくこいつ平気なんだろうか?


と、思われがちである。


私もそう考える時期があった。


いくら好きだとはいえ、今世を共に生きる同じ人間に対して


神だの教祖だの言って許されるのは


大好きなアイドルを応援したい高校生までの話だと。



桑田佳祐を知って、20年近く経とうとしてる。


人生では1番多感な時期を終え、


現代社会において20代後半の女性が経験するであろう


通過儀礼や洗礼はひと通りこなしたと思う。


普通は経験しない山場もあった。


そのなかで、桑田佳祐に対する感情は


一周も二周もして、多分今三周めのラストスパートだ。


どの時期も今思えば隔てなく彼に救われていたし、愛していたのだけれど


時にそれは男子中学生の母親に対する反抗期じみたものであり、女子高生の父親に対する嫌悪感に似た時期もあった。


社会に出てからは


この発言はどうなの?とか


この思想はどうなの?とか


自分がせいぜい大人になったつもりで


主義主張や政治的思想や、倫理観や価値観生死感


作品や発言から読み取れるもの全てを


人間性と照らし合わせたりして疑問に思ったり


自分の中で批判したり、腑に落ちないと思ったりした。


音楽も多種多様に聞くようになったし、


社会の洗礼を受けて、桑田佳祐に、と言うより音楽に時間を割けなくもなっている。


テレビ出演やシングルリリースなんかを

終わってから知ったり、新曲を追えなかったり

出会った頃には考えられないくらいに

時間も興味も費やさなくなった。


そうなるたびに何故か、後ろめたい気持ちが

あったりする時期も二周めの最後にはあった。


でも三周めを自覚したのは明確に覚えてる。


がんになったとき。


私は単に音楽だとか作品だとか、


思想、外見、人格だとかで


桑田佳祐を好きとか嫌いとか言う次元を


超えたのを自覚した。


あそこの時点でいわば私の中で


桑田佳祐は神になった。


何をしても救われないとき、


声を聞くだけで涙が溢れた。


一言一句、声の一音一音に励まされていて


意味や内容は全く関係なかった。


それより前も別に励まされてはいたし、


どうしようもなく悲しい、寂しい、


全ての喜怒哀楽に、主役ではなくても


桑田佳祐がいてどのシーンにも声が響いてた。


そう言う時間を過ごしてきたと思う。


だけど、


人が死を突きつけられる時、


恐怖と真剣に向き合わなければいけないとき


あんなに明確に人を救う神がいるのか?


どこを見ても死しか頭に浮かばない時に


生きる気持ちを前向きにしてくれる神がいるのか?


大抵の神は


死んだ後の世界がどうのなんて不確かな


慰めを信じろと強要する。


桑田佳祐は私にとって今生きる力を


ずっと供給してくれていた。


このありがたさを形容したいとき


神と言って、神と呼んで、神と崇めたいと思って


どこがおかしいんだろうと思った。


他に相応しい言葉がないから、神と言いたいだけで、


私はそれでも不十分とさえ思っている。


三周めから私は別に時間を割こうと


思い直すわけじゃなかったけど、


常に心の真ん中に、桑田佳祐を置くことしてる。


そんな最近に、私は、


ついにその御尊顔を間近で確認することに


成功したんだよね。


NHKからの素敵なチケットで


前からわずか6列めくらいの距離。

(ライブみたいに前に機材がないから

アリーナで言うと一列めくらいの距離と私は勝手に思ってる。)


だけど私は3週目に入った、

悟り系ファンだからさ


まさか、べつに


この肉眼で神を目視しようとも


ありがたさに泣けることはあれども


しごく冷静にさめざめと泣くんだろうなって


もう、取り乱したり緊張したりとか


Mステでアイドルが出てきた時の客席の女みたいな反応は


まさかね。


あんなにはならんよ、


あれは、ほら


悟れてないからよ。


私はそう言う次元じゃないし笑笑。


私の桑田さんはもう、あれだしw

そういうんじゃないし。


って何時間もかけて会場いったんだけどね、、


アナウンサーの雑な紹介で


セットの裏から出てきたその姿を


確認するやいなやよ、、



んぎゃーーーーえぇえーー?!


発狂ですよ。

心臓?

バクバクですよ。

汗?

気体ですよ。

目?

バキバキですよ。

鼻?

ドロドロですよ。

口?

だらだらですよ。



キリスト教徒ってキリストにあったら

こうなるのねって感じだよね。(ちがう。)




都会とは地下鉄がある都市のことを言うと思う

 

・・・

 

カモメです。

 

アメリカのドラマや映画でニューヨークの街を見ると

(NYと呼ぶ人とは友達になれない)

 

あるとは知っているけれど、実は半信半疑で認知している

 

何処かの星を見ているような気分になる。

 

住んでいる人はみんなおしゃれで、人生がキラキラしている。

 

ものすごく危険な通りには、銃を持ったギャングが徘徊していて

(私は反社をギャングと呼ぶのが好き)

 

ものすごくおしゃれな通りには

 

大富豪と知り合った娼婦がカードでブランド物を買い漁っているのだ。

 

 

でもきっと事実はそうじゃない。

 

行ったことはないけれど想像はつく。

 

私たち田舎者にとっては、東京もそれだったからだ。

 

2014年の時点でも

 

渋谷にはやまんばがいて、新宿では時々銃撃戦が起きるし

 

浅草で眉唾なことをすれば、てやんでえと江戸っ子に言われ

 

六本木を歩くのは全員、仕事終わりの業界人だと思っていた。

(出てからも青山を歩けば桑田佳祐に会えると信じていたが、出会ったことは一度もなかった)

 

 

そんな私も2015年に、夢を追いかけるという口実を盾に

 

上り電車に乗り込んだ。

 

たとえば私たちが上京したときのような胸の高鳴りと

 

初めてスマホの案内なしで地下鉄の乗り換えができたときの達成感を

 

都会生まれの人はどこで感じるんだろう。

 

それは束の間の背伸びで、錯覚で、

 

今思えばとてもとても浅はかな思い上がりだったのだが、

 

一瞬だけ私たちは、SFの勇敢な主人公だった。

 

同時期に田舎から上京した仲間とは、

 

どこへ行っても何をしなくても楽しかった。

 

何も買えないけど銀座にいけばセレブだったし

 

歌舞伎町に入る勇気はないけど

 

新宿の駅前のチェーン店で呑めばスワンだった。

(新宿スワンを見たことはありません)

 

あの頃の毎日は今後、

 

NYとかLDとかに住みはじめることがない限りは味わえないだろう。

(NYって本当は言いたいひと。ロンドンも略してみた)

 

都会生まれ都会育ちはきっと

 

NYでもPRでも、ああそれねって言う感じだろうか?

(ぱり!略したらおおくなった)

 

それならばもはや、異星へ探検にでもいかないかぎりは

 

これを味わうことはできない。

 

いやいやさすがに、NYとかPRとかLDとかに行った時は違うよ!

 

ちょっとこっちも冒険感あるよ!

 

っていうかもしれないけど

 

旅行とはまたちょっと違うんだ。

 

電車は1時間に一本、バスは半日に一本。

 

マックもケータイ屋も隣町に行かなきゃなくて、

 

一番近いデパートは車で1時間(しかもアピタ)

 

そんな辺境から一人、なんの後ろめたさもなく脱出するあの上京という洗礼は

 

人生において他の何の行事にも似つかわない唯一のアドベンチャーだったと思う。

(たむけん以来に聞くアドベンチャーを素で使う語彙力)

 

 

 

 

こんばんは。

 

絵も描きたいし、CADも練習したいし、文章も描きたい

 

でも1日特に何もすることなく寝てしまうことも多い

 

・・・カモメです。

 

そんな時すごい病みます。

 

こうして時間は、あっという間に過ぎて

 

あっという間におばあちゃんになっちゃうんじゃないかとか。

 

右を向いても左を向いてもつまらない人間だらけ。

 

上司も先輩も同期もみんな

 

とりたてて何も面白いところがない人間ばかり。

 

私はそんな毎日に流されて

 

自分を失いそう。好きな人も友達も家族も近くにはいない。

 

生まれてはじめてのひとりぼっち。

 

失ったと実感できるほどの恋愛じゃなかったけど

 

あんな人でも今更さみしい。

 

だけど街に出会いを求めていく気力も興味もない。

 

そういう出会いは結局、同じことを繰り返すだけで

 

生産性がないって、4年足らずの時間で学んでしまったから

 

東京は綺麗な街だと思う。

 

 

機嫌が悪いと上司は物に当たり

 

取引先の気に入ってる女と話した後だけ上機嫌になる。

 

私はそのタイミングで確認に行き、

 

女の腐ったような、、ってこの人のことだなって

 

毎日実感する。

 

一番歳の近い30歳のデザイナーは

 

ジムで知り合ったエグザイル顔のむきむきと

 

付き合っているが上司に色気を使う。

 

前の席のババアはガンに効く石や粉を

 

私に勧めてくるし、事務の骸骨は

 

探るように話しかけてきては私の髪色が明るいと

 

陰口を叩く。上の階の死んだような顔をした40代メスは

 

漁師の娘の私に向かって、弁当が魚臭いと

 

悪気もなく言ってくるような低知能だし、

 

その上司は自衛隊オタクで、

 

私の腕にあったヘナタトゥーを見た瞬間から

 

私をヤクザな娘と思い毛嫌いしてる。

 

ごみ溜めみたいな陰気臭い職場で

 

貴金属と向き合っているだけの私に

 

時間はだた過ぎてくだけ、

 

毎日楽しいことは食べること、お金を使うこと。

 

酒を飲むことにも、夜遊びすることにも飽きた今は

 

何を求めているのか自分でも不明。

 

画力も文章力も落ちて

 

やりたいことができているのかどうかもわからない。

 

不満ばかりが増えて

 

生理中みたいにイライラする。

 

今の生活より、

 

胸に腫瘍があった闘病中の方が

 

よっぽどキラキラしてた。私は

 

なんのためにガンと闘ったんだろう。

 

それでは闘病当時に書いた日記、3つ目です。

 

東京のお茶の水に生検検査の結果を聞きにいく前日。

 

この時点でまだ、腫瘍の正体はわからず

 

胸腺腫なのか、胸腺ガンなのか、悪性リンパ腫なのか

 

はたまた何か違うものなのか、、、

 

恐怖に怯えて暮らした1ヶ月間

(生検手術から結果が出るまで約1ヶ月)

 

人生で一番長い1ヶ月だった。

 

得体の知れない恐怖が一番きく。

 

そしてこのあと、得体の知れなかった恐怖の

 

正体がわかり、本物の絶望が私を襲うことになるのだけど。

 

 

 

 

 今日は1日家にいた。

明日は(日付では今日)東京へ行く日。

病院の近くのホテルに泊まって、

明後日(日付では明日)結果を知る。

 

 ずっと右胸をかばって生活していた

私の背中と肩はもう限界に近く凝っていたらしい。

夕食後、なんとも言えない気だるさと気持ち悪さに襲われ訴えると、

母が背中や肩をマッサージしてくれた。

母が過呼吸になった次の日、

必ず脇の下あたりの筋肉が痛くなるらしく、

私も同じところが凝っていたからマッサージは効果覿面だった。

毎回過呼吸の後は、

ものを持ち上げられない程痛むらしいのだが、

私はそんなことにも気づかずにいた。

そんな自分が情けなくて申し訳なくて

「私もしてあげればよかったね」

って言っていたらしゃくりあげて泣いてた。

母が泣きながらマッサージするものだから、

私もつられて泣いてしまったんだと思う。

いや、私が先だったか。

 

 特に何もない1日だった。

明後日の病院には父はこない。

残って仕事をするそうだ。父らしい。

私の治療代くらい、1日で稼ぐこともある。

兄2の運転で母と東京へ向かい3人でホテルに泊まり、

病院には兄1も駆けつけてくれる。

 

 久しぶりに彼と電話をした。

お母さんの訃報から声を聞いていなかった。

言葉ではかなり落ち込んでいる様子だったけれど、

声を聞くと重症ではなさそうでよかった。

安心したところで、

割と私の彼に対する気持ちは大きいのだと思った。

 

 大丈夫大丈夫。落ち着いて望もう。

良くても悪くても、勝負はここからなんだ。

 

 

 

 

母は酒乱な祖父の暴力に怯える

 

不穏な生い立ちのせいで、パニック障害と

 

特定の人物に対する対人恐怖症、

 

過呼吸を持病に持っている。

 

私はなにかと被害者なりたがる母を

 

面倒だと思っていたし、実際

 

冷静に考えて自分が悪いだろと突っ込みたくなることも

 

母は誰かを悪者にする癖があって

 

いつも悲劇のヒロインで居たいようなうざったさを

 

私は感じてた。冷酷にも母が過呼吸になっても

 

いつものこと、どうせ現実逃避の成れの果てでしょと

 

心の底から心配したことはなかった。

(それはもちろん、今もたぶん少しはそう思っているし、これは

説明すれば長くなる叙情が色々とあるのだが)

 

だけど

 

都合が悪くなるといつも誰かのせいにして

 

その人に対するパニック障害を起こす母が

 

私の病気からは逃げなかった。

 

家族の誰よりも、

 

時には私よりも強く立ち向かった。

 

病気になって初めて私は母の強さを見た。

 

私は

 

母の健康のこと、精神状態のことなんて

 

いままで見向きもしなかったのに

 

過呼吸の後、腕が上がらないくらい筋肉痛になることなんて

 

気にもかけず気づいてさえあげられなかったのに

 

私の痛いところや辛いことに母はすぐに気づいた。

 

それが申し訳なくてありがたくて、後悔で、

 

あのときすごく泣いた。

 

母の前であんなに泣いたのは幼い頃以来だと思う。

 

「私もしてあげればよかった」

「きづかなかった」

 

と言いながら自分の冷たさを感じていた私に

 

母は、バカそんなことはどうでもいい

 

とやっぱり泣きながら笑って答えてたと思う。

 

あの夜は一番の恐怖と一番の暖かさを感じて眠った。

 

 

 

 

兄や母は迷惑な男だと言ったけど

 

闘病中彼は毎日電話をくれた。

 

家族とわずかな友人としか会わず

 

ただガン患者として過ごしていた私にとって

 

彼からの電話は唯一普通の女の子でいられる時間だった。

 

そのことについては今も

 

とっても感謝してる。

 

闘病中にもメイクしたりファッション雑誌を読んだり

 

女であろうとするのは大切なことだ。

 

女性にとってそれは重要なこと。

 

顔色が悪くなったり、変にむくんだり、

 

髪の毛が抜けたり、肌が荒れたり。

 

今までちゃんとケアしていた人ほど辛いと思う。

 

それに比べ私はもともと女子力がなかったから

 

ショックは軽かった。

 

だけど、こんなことがなければ

 

人生で坊主になることも、坊主金髪になることも

 

なかったし、案外坊主が似合う自分も知らなかった。

 

病気を認めて共存し、

 

その上でお洒落をしても案外楽しい。

 

治療の時に派手なピアスをしていても

 

まわりは、

 

後少しの命を精一杯楽しんでいるのねと、

 

何をしても同情の目で見てくれることが

 

ガン患者の特権だ。

 

病人の特権を大いに利用すればいいと思う。

 

若いうちガンになれるなんて運が悪くて1度きりだから。

 

こんばんは。

 

生理痛がひどい・・・カモメです。

 

そういえば、抗がん剤治療中は

 

生理が止まる人もいるみたいだけど

 

私は順調にきてたなあ。

 

量は減っていたけど。

 

それでも卵子ができなくなる可能性があるから

 

治療の前に卵子を冷凍?することを推奨します

 

とか言われたんだけど、、、、

 

それの予約と、手術待ってたらね

 

抗がん剤治療が遅くなっちゃうからってやめた。

 

入院待ちの時間中に

 

自覚症状としては中期の

 

発熱まで出てて、私もかなりビビってたから

 

将来を期待する男もいないくせに

 

将来の子供のことまで考える余裕はなかった。

 

両親もお前の命が第一だからって

 

子供なんてその気になれば貰うことだってできるとか

 

よくいうよね、四人も産んどいて笑。

 

急を要するんじゃなかったら、

 

卵子凍結?やっといた方がいいみたい。

 

何しろお医者様がお勧めすることは従った方がいい。

 

それでは、1から次の日記。

 

毎日書いていたわけじゃないので

 

飛び飛びです。

 

全部で20あるかないかくらい。

 

ぶんの2です。

 

 

 

 

2018 01 08 M

 

 こんな状態の時は、

精神状態なんて分か秒単位でコロコロと変わる。

それが、俗にいう、情緒不安定というやつだ。

私が昨日の夜、東京へ戻りたいと言ったのは、

その時は最善の策だと思っていたが、

周りの人にとっては違う。よくよく考えてみれば、

自分自身にとっても最善の策ではなかったはずだ。

夜シクシク泣いて居ると父を起こしてしまうこと。

否が応でも朝まで私のそばを離れないでいてくれること。

母が私の精神状態を読み取って、

色々なことを試してくれるのに、

それで素直に元気になってあげられないこと。

それを苦痛だと思った。

一人でいても精神状態が何かで紛れる自信はなかったが、

周りの精神状態まで巻き込むことは無くなると思った。

そしてそれで私が傷つくこともない。

それと単純にいつも通り”普通”で居たいと思ったのもある。

すべてが自分本位の考えだった。

両親からしてみれば、

私がこの腫瘍を抱えながら東京へ一人帰ることよりも、

私が近くにいて日々不安定な精神状態に付き合うことの方が

ストレスにはならない。物事を正常に考えられる私であれば、

それに気づかないはずもなかった。

というより、気づいていた。

だけど、自分の現実逃避をとった意見だった。

まあ、そんなことは両親も気づいているだろうから、

反省する気もない。私は私で精一杯だったのだ。

 

 一夜明けて精神状態はころっと変わったが、

またころっと変わるのが厄介なところだと思う。

結論と、最善策はいつも見えているのに、

それに従えないのが「情緒不安定」なのだ。結論と最善策とは

結論「考えても仕方がない」 最善策「いま笑顔で居ること」

このふたつに尽きる。そんなことはハナから私の中にはあった。

順天堂で兄とともに病状を知ったその瞬間からあった。

たぶん同じような状況に立たされる人間の80パーセントは

この考えが初めから脳内にある。

ただ、それを、状況に立たされた瞬間に行使できる人間が少ないだけである。

私の家族は、そんなことがハナから私の脳内にはある、

ということと、だけどそれに従えていないが故に悩み苦しんで居る、

ということも、一瞬で理解する。特に、兄1と母に至っては瞬時だ。

鈍感そうに見える他の面々も、愛で理解する。

家族とは本当に厄介で有難い。

私の考えて居るほとんどのことが筒抜けだと思っていて間違いない。

そう信じられることこそ愛だ。

 

 私が今、笑顔で居ること。

周りにとっても自分にとってもそれがいちばん大切だ。

なにより、私が今、笑顔で居ることで、

安心してくれる人がいるというのが、本当にいちばん幸せなことだ。

こんな状況だからじゃない。それはいつまでも続く。

どんな時も私が笑顔でいることで、

”それがいちばん”

と思ってくれる人がいる。

だったらいつも”いちばん”で居てやろうじゃないか。

 

 

 

日記はここまで。

 

 

 

家族の暖かさと尊さ、

 

いかに自分が愛されているかを実感しつつ

 

恐怖と戦うって、

 

すごい辛かった。

 

これは、

 

この時期は

 

今思い出しても、2度と戻りたくない

 

人生でおそらく一番恐ろしい日々だった。

 

母や父は、自分がガンにだって何にだってなったとしても

 

あんなに苦しむことはないって言い切ってた。

 

私は患部が痛んでいたので、

 

この頃は夜まともに眠れなかった。

 

激痛ってわけじゃないけど

 

恐怖と痛み、周りに家族がいると

 

泣いたり弱気になれる時間は

 

夜中しかなかったから。

 

父は昔から物音に敏感で

 

私たちの小さい頃から、

 

夜中に体調が悪くなったり

 

怖い夢を見て泣いていたりすると、

 

そばにいてくれたのは父だった。

 

このときも

 

私のすすり泣く声で

 

何度起こしてしまったかわからない。

 

その度に、痛いのか?と聞くけど

 

痛くて泣いてるわけじゃないって知ると

 

もっと苦しそうな顔をした。

 

そんな時父は何も言わないけど、

 

椅子に座って私が寝たふりをしても

 

なかなかそばを離れてくれなかった。

 

寝るときは私が寝たふりをしない限り

 

母は決して寝なかったし

 

私が寝た後も

 

台所の方ですすり泣く声が聞こえたりした。

 

母や父はネットなんか情報を集めることが得意じゃないし

 

そういう期にもなれなかったらしく

 

悪性リンパ腫という病名に完全に最悪の未来を見ていたと思う。

 

特に母は、曽祖父を悪性リンパ腫で亡くしてる。

 

ほんの20年くらい前までは

 

今の治癒率の半分の治癒率しかなかった病気だ。

 

父に至っては、ガンと聞くと不治の病であるかのような

 

印象を受ける世代だから、私には言わなかったけど

 

影で、カモメの望むことは何でもしてやりたいと

 

夜毎、母に言っていたらしい。

 

今思えば、アメリカ旅行にでも行きたいと

 

言っておけばよかったと思う次第である。

 

 

 

一番大切で大好きな家族を

 

苦しめているという実感が、

 

ガンになったことよりも悲しかった。

こんばんは。

 

タランティーノ映画とは

 

以外に相性が悪い・・・カモメです。

 

個人的にね。

 

 

私は闘病中、

 

ほとんど気分を落としたことがなかった

 

ように振る舞ってきた、と思う。

 

特に家族以外の人にはなおさら。

 

そんな6ヶ月間だったけど、

 

実は、誰にも内緒で日記を書いていましたw

(日記ってそういうものだしね。)

 

このダブルユーなんでつけた?

 

っていうくらい、暗いものもあります。

 

そりゃあガンだからねw

 

でも、もしも、万が一、私がいなくなった後で

 

誰かに読んでほしいと思って

 

書いていた気持ちがあります。

 

それと、誰かのためになればいいと思い、

 

薬の副作用のこととか

 

検査のこと、結構細かく書いています。

 

闘病中は、案外生活が楽しくて、

 

気分がハイだった(どんな患者だよ)

 

ので、闘病ブログなんて書く気にならなかったのですが

 

全くもって意味のわからないこのタイミングで

 

1日ずつ日記を公開していくことにしました。

 

同じ病気の人、ガンの告知を受けた人、

 

そして家族にガン患者がいる人に読んでほしいなと思います。

 

バッドエンドを望むたちの読者様の要望には

 

答えかねます。私いま、こんなに元気だから。

 

編集は全く加えてありません。

 

 

 

 

 

2018 01 05 F

 

 

色恋の歌ばかり聴いてきたから、

こんな時助けになるような音楽もない。

 

 去年といってもほんの2週間も前の話だが、

前縦隔、つまり心臓の右隣に直径約9センチの腫瘍が見つかった。

友人の誘いでヨガのレッスンへ行った翌日、

右上部の肋がひどく傷んだ。

市ヶ谷で評判のいい整形外科にかかり、レントゲンで影が見つかった。

現時点でそれ以上の進展はない。

御茶ノ水の順天堂大学病院にかかったが、確かにあるという確証を得て、

良いか悪いかの検査結果は今月の11日にならなくてはわからない。

 

 痛みは不思議なことにあの日以降引いていたが、

今日はあの日以来の痛みだった。

内臓の奥の方という痛みではないのがまだ救いで、

肋が下から押されているに違いない痛みだ。

レントゲンで見る私の肋の骨は、右だけ盛り上がっていた。

 

 病院で一緒にいてくれたあの時の兄の言葉や励まし以外は、

どんなことも私の心に入ってこなかった。

父や母、兄弟とその連れ合い、親友や専門学校の友達や先生まで、

誰の顔を見ても、言葉を聞いても、別に普段通りかそれ以下で、

一人でいるよりはマシだが、正直それ以上でもそれ以下でもなかった。

時に、一人で居ることができたら楽だろうと思う日もあった。

実家に帰ってきてからは、

いつもと変わらない年末年始の慌ただしい日が続いた。

一人で暮らしていれば、泣くことはあっても、無理して笑うことはない。

私は団欒という言葉を崩さぬように気を使って過ごした。

私が元気がない時、それがバレないはずはない。

ただ、私が元気がない時、それがバレて、

私を元気付けようとしているのも私にバレないはずはなかった。

とてもありがたいとこであるのに、全然、全くもって、

私はそれに元気を貰わなかった。

そしてそれを申し訳ないと思う一連の心の動きが、一番のストレスだった。

 

 日が経つのは遅い。

今日のような痛みがあると、思考回路は一気に悪い方へ行く。

こんなにも時が早く過ぎればいいと思ったことはないけれど、

こんなにも、時が過ぎなければいいと思ったこともない。

11日はまだ遠い。

今という塊が、未知にジワジワと喰い込んで行くのが時間だ。

私は常にその先端にいる。海に小石を投げた時、

一定の速度で石は海底へ落ちてゆく。速度を変えることはできない。

 

 誰に何を言われようが、どんなに苦しくてどんなに痛かろうが、

待つしかない。今はただ、待つしかない。

悪い結果も良い結果も私は受け止めよう。

これからもしも、長い闘病が待っていようとも、それはもう始まっている。

私はもう、ここで、恐怖とも希望とも戦っている。

 

 

 

です。

 

ね!?

 

びびってんでしょwwwwwww

 

こんなにビビってたのね実は。

 

まあ、長い闘病生活にもならんし

 

なんならお前今から10キロ太るからな

 

って伝えたい戻って。