平成24年8月25日、越後線開業・吉田駅開業100周年イベントも終盤となり、柏崎から新潟に戻る、復路の吉田駅「15:13着」「15:50発」の記念列車の姿が再び現われるまで時間があるので、駅前の空き店舗に、100枚以上の写真等を展示した「吉田懐かし写真展」へと足を伸ばした(ポスター・↓)。
中に入ると、「吉田今昔物語」なる、街角の今昔を展示した定点写真や(写真↓)、
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昭和22年に、当時の駅名の西吉田駅前にあった、現在の「新潟縣信用組合吉田支店」の場所に開館した「吉田劇場」なる、戦後の吉田町民の娯楽場だった資料展示が行われました(写真↓)。
竣工当時のポスターです(写真↓)。今は無き「大和百貨店・新潟店」の広告と、昭和50年廃線の長岡鉄道(越後交通長岡線・寺泊~大河津~西長岡~来迎寺)や、平成4・5・11年と3段階廃線となった新潟電鉄(新潟交通電車線・燕~県庁前)、そして、昭和60年廃線の国鉄弥彦東線(東三条~越後長沢)の路線図が懐かしいですねぇ。
これが「吉田劇場」の外観の絵図です(写真↓)。描かれた方は、吉田駅開業100年記念グッツの越後線&弥彦線のSL同時発車の絵画を描かれた画伯です。
今上天皇陛下のご成婚(昭和34年)を期に各家庭に登場した「テレビ」の普及により客足が遠のき、やがて閉館した「吉田劇場」は、戦後昭和22年から同30年代後半頃まで活躍し、その使命を終えました。絵図は、盛況当時の、開演20分前の「豪華・三波春夫ショー」の、劇場内部の模様です(写真↓)。
絵図ばかりじゃありませんよ。直立不動燕尾服姿の東海林太郎先生や、数多くの昭和の名歌手の歌謡ショーの様子を写した多数の記録写真。そしてありました!!。楽屋前で写った、派手な着物姿の新潟県民栄誉賞第2号受賞者の故三波春夫先生の写真額もありました!!。この当時は「浪曲師」から「歌手」に転身した頃で、昭和32年のヒット曲「チャンチキおけさ(↓)」なんて歌っていたでしょうか?。http://www.youtube.com/watch?v=dPPqmkIOSRk
他所の県は断わっても、新潟県だけは、体調が悪くてもどんな小さなリサイタルでも必ず出演はする、郷土愛の大変強かった先生でした。一周忌の平成14年4月14日には、生まれ育った故郷、新潟県長岡市(旧三島郡越路町)塚野山集落に、新潟県の関係者や、ご子息の三波豊和氏も参列して、旧越路町主催の顕彰像除幕式が挙行されました(写真↓)。話しは元に戻し、吉田劇場でも「お客様は神様です!!」なんて言いながら、この銅像みたいに歌っていたのでしょうか。
燕市吉田地区の昭和の匂いがプンプン漂った写真展をあとに、JR吉田駅へと戻ります。記念列車が現われるまで時間があったので、待合室に入った。すごいものを見つけました!!。
大正元年に越後線が開通したわけですが、その後に越後線は昭和2年10月に国有化となり、JR発足の昭和62年までその体制が続きました。その国有化昇格記念に頂いた「茶托(煎茶の茶碗の下に置く皿みたいなもの)」の写真が展示してありました(写真↓)。
明治末期に始まった燕市の地場産業である「金属洋食器」の製造は、元々の主要産業だった江戸期の「鎚起銅器(ついきどうき)」の製造法を応用して、今日に至りました。
【鎚起銅器HP】http://www.gyokusendo.com/
その特産品である茶托(銅器)、燕で作った特注品と思われます。中心部にある刻印は、菊の紋なのかと思ったら、SLの車輪を模った昔懐かしの「国鉄マーク」が打たれてありました!!(写真↓)。
JRの前身は、運輸省(旧建設省と統合された現在の国土交通省の前身)傘下?の「日本国有鉄道」、略して「国鉄」と呼ばれ、「国鉄」の前身は、「鉄道省」なる省庁が存在し、国が直接、鉄道を総括してました。そのため、鉄道省お抱えの鉄道は「省線」なんて言われていた時代ですねぇ。
記念列車到着時刻の15:13になりました。1番ホームに出ます。柏崎方面から15:50発新潟行きの記念列車が進入しました。白い制服を着た駅長が出迎えています(写真↓)。
だんだん車輌の先頭部が大きくなって行きます。駅長さん、車輌の運転士に敬礼してます(写真↓↓↓↓)。
駅前広場に陣取った記念イベントのブーステントも、15時に閉店し、撤去が始まりました。そこで売っていた記念品の一部をホームに持って行き、規模は小さいながらも販売を行いました。結構グッツを買われた方が多かったです(写真↓)。
県央は最後まで駅名が決まらなかった、天下の恥曝し名称「燕三条vs三条燕」で大騒ぎした昭和57年の「上越新幹線開業30周年」のノボリと一緒に、駅員による「おかげさまで越後線開業100周年・吉田駅」の横断幕を持って、記念撮影です(写真↓)。
平成の市町村合併で、旧吉田町は旧燕市・旧分水町と合併し、新燕市が、平成18年3月20日に誕生しました。
戦後、特に昭和30・40年代は燕地区の地場産業の洋食器産業が大繁盛し、燕地区に点在する金属産業の工場に通勤する利用者が大変多く、巻方面・出雲崎方面・弥彦方面からの工員さんが、この吉田駅に一極集中し、燕に向かう東三条行きの弥彦線ホームは大混雑し、中には車輌出入り口から乗車することが出来ず、車窓から飛び乗ってまで燕に通われたという乗客も居たそうです。
そして帰宅時も、燕は、首都圏並みの大混雑した町でしたので、中継駅の吉田駅は、市外の工員さんたちのいい息抜きの場所でした。そのため、吉田駅前の飲食店や酒店など等は結構繁盛し、列車待ちに「あがり酒」と称し、一升瓶のボトルキープみたいに、コップ酒を飲んでは家路に帰っていくという、高度経済成長期は、後に結婚(合併)相手となった吉田地区も、特にこの吉田駅こそ、燕の地場産業を支えた大功労者でした。この大混雑ぶりは、首都圏の「丸の内通い」にあたる地方版「燕通い(つばめがよい)」と呼んだそうです。
やがて、自動車の時代となり、燕の企業が郊外に進出し、特に吉田地区に進出が多かったです。知らない人は「合併相手は三条でなく、何で吉田なの?」って思われると思いますが、昔よりそんな深い結びつき等もあって、燕があって吉田が栄え、又、吉田があって燕が栄えたようなものですので、合併前の燕地区は「三条か、吉田か・・・」と、街中に無数のノボリ旗をはためかせた住民投票にまで発展し、又、吉田地区民も燕地区との結婚を強く望んでおりましたので、結果、現在に至るわけなのです。
話しがかなり脱線しましたが、復路の吉田駅記念列車発車の模様は、「その6」でお話しします。お楽しみ。