クリスチャンが偽善者だと言われるワケ | トラウマから自由にするRCメソッド (株)RCM社長 高橋万紀子のブログ

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心の整理と心の外科手術専門のカウンセラー
養成もしています。

イエスキリストが十字架にかかったというのは、
クリスチャンでなくとも
知っていると思うのですが、
じゃあなぜ十字架にかかったのさ?
という理由は
キリスト教では
私(あなた)の罪を代わりに刈り取ってくださった
と教えています。
十字架にかかった理由について
違うことを教えているのは
キリスト教ではありませんのでよろしく。
ものみの塔は従順の象徴でしたっけ?
それはキリスト教ではございません。

で、そこから先の話ですが
キリスト教の人でね、時々
イエス様が十字架で罪を代わりに
背負ってくださったので
罪を犯し続けるダメな私でも大丈夫
と教える人がいますが

臼をくくりつけられて湖に沈められれば良いのに
byイエス様(マタイの福音書18:6)

イエス様も結構
毒を吐いていらっしゃいます。

そうじゃないの。
正しく心を整理していくと
どうしようもないゴミにぶち当たります。
不幸な刈り取りをさせていたのは
こいつか!というゴミ。(=罪)

カウンセリングでそこまで行くと
私は相手がキリスト教の信者さんでなくても
イエスキリストの十字架に
そのゴミ置いてきませんか?
と勧めています。

置いてきたクライアントさんの
明るい表情は、ホントみなさんに見せてあげたい。

種まきと刈り取りの法則の
種を捨ててくるということなんです。
そのゴミの刈り取りを
しなくて良いということです。

間違えないでほしいのは
いつでも取りに行けるので
取りに行ったら、またそのゴミの結果は
刈り取らなければならなくなる
ということです。
一度捨てたら大丈夫とは
言わないことにしているのはこの理由からです。

ゴミを捨てない限り
心はゴミ屋敷のままです。
それは自分の決断によるもので
神様も手出しはなさいません。
紳士だから。

沈められれば良いのにというのは
ゴミ屋敷のままで大丈夫という教え。
十字架に捨てに行かないとダメじゃん。
意味がわかりますか?
心の中がゴミだらけでどうしていいかわからない
そんなとき
「あそこにゴミステーションがあるよ!
捨てていいんだよ!」
これがキリスト教の教えなんですが。
え?本当?いいの?やったー!

…といってゴミをそこに持って行かなかったら。

全然幸せになれないし
不幸な刈り取りのループから抜けられません。
クリスチャンなのに
不幸な刈り取りのループから
抜けられずにいる人も多いのですよ。

ゴミステーションがあると
知っているけれど、ゴミを捨てていない
クリスチャンが多いのです。

「知ってる?
あそこにゴミステーションがあって
全部ゴミを捨てることができるよ。」
と伝えても、心がゴミだらけのままでは
全然説得力ありませんよね。

なんか押し入れとかに突っ込んでるけど
悪臭がするのでバレバレ
…というのを見て
クリスチャンは偽善者だ
と言われるわけです。

こんな優れた教えはないと思うのに
全然使えていない人が多すぎます。

イエス様をゴミ捨て場扱いするとは何事だ
と思いますか?

イエス様がゴミ捨て場にならなきゃ
心の問題を解決できないほど
人間が腐ってたから
意を決して降ってきてくれたんですよ。

それほど腐っている私のために。
号泣。
一生ついていきます。

神様信じるってそういうことです。

存分にゴミを捨てさせてもらって
ゴミ屋敷がだんだんキレイになってくるから
他の人と何か違うと思われるのです。

ゴミを捨てなきゃ変わりません。
他のごみ捨て場を私は知らないし
もしあるならば
それはそれで良いのではないですか?
でも捨てない限りは変わりません。

ああ

私のバッグの中も同じ。