自分自身を観察する、と、考えてみる。
思考と、五感と、四肢を、備えた自分自身が、肉体と、霊体とゆう、二つの身体 を、体験する。
この時、意識は、肉体の身体の自分、と、霊体の身体の自分、を、比較して、観察する、観察者 と、なる。
たとえば、肉体の状態の自分が、酷い神経痛とかだったり、しても、霊体の状態の自分 に、なると、その痛みは、なくなる。
つまり、身体が、二つあり、意識が、自由に、その二つの身体の状態を、体験出来る。
まあ、明晰夢見=サマディ? で、意志を持って霊体の状態で、活動出来ている。
と、ゆう、二重生活の体験をする。
その時、どっちも、自分自身の、リアルな、生活体験に、なるのだが、どちらが、主で、どちらが、従に、なるのだろうか?
映画のアバター で、主人公が、そんな、二重生活の体験を、して、どちらが、本当の、自分自身なのか?と、悩むシーンが、あったが、そんな感じ。
まあ、アバターでは、その主人公は、アバターの方に、意識を、移す、と、ゆう選択を、したのだったか。
理解と、しては、肉体の自分自身は、いずれ、その状態では、居られなくなる=肉体の寿命がある。
それと、比較して、霊体の自分自身は、寿命が、あったと、しても、桁違いに、長いものになる・・・ような気が、する。
必然的に、どちらが主 で、どちらが従か が、定まって来る=やがて、終わる肉体を、主 と、するより、より、長い霊体の、方が、主 に、なる。
・・・明晰夢見=サマディ? の、状態が、主 で、肉体の状態 が、従 と、ゆう感覚。
・・・霊界が、世界の本当 で、現界=この世=物質世界 が、仮の世界、一時的な世界、やがて終わる世界 と、ゆう認識に、なる。