気=愛エネ は、無限だけれど、人によって、扱える総量が、決められている、と、考えてみる。
徳とか、徳分、と、ゆう概念だけれど、これが、現実=物質世界 だと、お金のようなもの、と、考えられる。
霊界全体を、通して、徳=霊界のお金? は、主観的な体験 の内、感覚として、得られるもの の、対価で、ある?
たとえば、夢見でも、感覚のある夢見と、感覚のない夢見が、ある。
徳、徳分で、ゆうと、感覚のある夢見は、徳分 が、あり、感覚のない夢見は、徳分がない。
現実世界でも、映画とかをみて、面白いと、感じるのは、徳分が、あり、つまらない、と、感じるなら、徳分が、ない?
次元が、上がると、より、徳分を、必要と、する?
たとえば、徳がある、時は、神を身近に感じる。
徳が無くなると、神が、遠い存在に、思う。
と、ゆうように、主観が、変化する。
幸せ とか、幸福 と、ゆうのは、感覚のあるなし、感じ方、と、関係している・・・と、思うので、明晰夢見の利点と、しては、意識的に、自分自身の状態を、観察出来る事で、あると、思う。
・・・神の恩寵とかは、夢見に、おいて、風が吹いてくる、雨が降ってくる、振動、波動、などのような、形で、与えられる事が、ある。
・・・徳がある、と、明晰夢見の、自由度が、増す。
・・・徳が無くなってくると、明晰夢見では、感覚が消失したり、主観的でなく、自分の体験が、何処かの誰かの体験のように、感じる?
・・・輪廻でも、徳のあるなし が、重要で、あり、徳がない と、低い境涯に輪廻する、と、なる。
・・・明晰夢見の内容と、現実の出来事が、徳分が、あると、シンクロするのか?=思考が、現実化する?