死んだら、皆、仏 と、考えてみる。
これは、この世を、離れ、あの世に、生まれる、と、ゆうような意味かも、しれない。
たとえば、この世の、我=自分 と、ゆうものは、生まれてから、死ぬまでの、体験や、学習に、よる、記憶だと、しよう。
そして、仏とは、あの世における、生まれてからの、体験と、学習による、記憶で、ある。
あの世では、死ぬ、と、ゆう、概念が、無いから、この世とは、比べものに、ならない、記憶の量が、あるのかもしれない。
そもそも、仏陀とは、生きて仏と、なる=この世の我 と、あの世の我 が、一つとなる と、ゆう事だと、すれば、この世の、始まりから、かなりの仏陀が、いても、おかしくない。
定義するなら、仏陀とは、生きて仏と、なった人。
この世に、いながらにして、あの世の、記憶を、有する人。
明晰夢見道=サマディ? の、積み重ねに、より、我の本質=体験と記憶の集積 を、理解する事が出来る?
・・・明晰夢見状態の初期は、赤子のような心情であり、明晰夢見の体験や記憶が、蓄積するに、したがって、この世と、違う我と、ゆうものが、出来てくる=この世の我は、小我 あの世の我は、大我 そして、どちらも、我 と、ゆう、自覚が、ある?