天理(てんのことわり) の、中で、かしもの、かりもの の、話は、難しい と、考えてみる。
この世は、神の内懷 と、考えて、そこに、既に、道具雛型の、神は、顕現しており、かしもの =人間からすれば、かりもの の、理(ことわり) が、ある、と、ゆうので、ある。
たとえば、人間には、心 一つは、自由に使ってよいと、ゆう、理(ことわり)が、ある。
心は、我が物、身体=肉体 は、かりもの、と、ゆう、事で、肉体は、既に、道具の神の顕現 と、する。
心は、人間、身体=肉体 は、神の顕現、そして、その肉体を、かりて、心=人間 は、この世に、生きている=心 と、肉体 は、一つ では、なく、二つ、一つの、関係=心 と、肉体 は、一つ では、なく、二つ なのだが、同じ、動きを、する事に、よって、一つのように、見える?
その為、心から、すると、身体が、自分のもの、と、錯覚してしまう。
車は、レンタカーで、自分の意のままに、運転出来るが、やがて、返す時に、代金を、支払い、返却するみたいな事。
レンタカーなら、レンタル会社に、レンタル代を払って、お礼を、する。
身体=肉体 を、借りた、なら、やがて、返して、対価を、払い、お礼を、ゆう。
まあ、対価とは、お金の、事では、なく、神の御用=おつとめ や、日の寄進 と、して、返す。
お金も、お供えと、して、その、教えを、広める為に、使う?=または、自分が、説いて広める=お布施 や、法布施 と、ゆうもの。
そして、人の身体=肉体 は、神の顕現 なのだから、それに、施した事は、神に奉仕した事 と、なり、借りを返す=報恩 に、なる=飢えた肉体 に、食事を、施す のは、神への奉仕?
と、ゆう、ちょっと には、わからない、難しい、教えと、なって、いるので、ある。
・・・さらに、身の内も、神のかしもの=気のような、形の無いもの、と、なって、くるのだが、それは、徳分 と、して、心と、連動している・・・これも、ちょっと には、わからん・・・???
・・・神の思惑 と、身口意 が、一致=三密 すれば、人は、即、神となる=神人 または、仏?