一つの極、空(くう)の、把握には、深い、失望が、必要である。

それを、明晰夢見道=サマディ道? では、どんな、表現に、なるのかと、ゆうと、それまでの、明晰夢見では、体内=明晰夢見での身体の体内 の、光が、認識されて、いなかった、が、ある日、明晰夢見の中で、大量の光が、体内から、出た。

そして、気感が、鈍った状態=詰まったでは、なく、光が、無くなり、感覚が、無くなる、と、ゆう状態に、入る。

深い、失望は、諦めで、ある=これを、悟りと、ゆう人もいるかも、しれないが、諦めは、諦めで、ある。

この時、悟りとは、別種の、歓喜が、生じる。

まあ、何も期待しない、現実を、ありのまま、受け止める、と、いった事。

生物は、刹那=愛=悟り を、求めるが、それを、諦める、と、ゆうような、事。

ストーカーが、ストーカーを、自分の意思で、やめる、と、ゆうような場合で、ある。

執着を、離れる、と、ゆう事。

すると、明晰夢見道=サマディ道? は、次なる、変化を、する。

それまで、感覚に、遮られて、見えなかった、意識が、現れる=真我?とか、純粋意識とか、ゆうやつ。

現実では、気感が、鈍る、行動が、卑屈になる、自堕落に、なる、とかで、ある。

酸いも甘いも、と、ゆうか、愛の甘さを、しりながら、諦める、と、ゆう事に、よって、空(くう)を、知る、みたいな。

そして、その、純粋意識は、自分自身が、何故、今の状態、今の境遇に、なった、かの、原因でも、ある・・・??

・・・続く。