この世を、田んぼや、畑に、見立てて、人間とは、そこに、巻かれた、種、植えられた苗 と、考えてみる。
この世は、神の田地、で、あり、天人 を、育てる為に、時に、肥やしを、したり、手入れも、する。
そして、良く、育ったなら、収穫する=天人 に、する。
駄目なら、潰して、肥やしに、したり、どうにも、ならない、ものは、燃やして、灰にして、肥やしに、する。
と、まあ、神が、身の内 と、それに、照応する、身の外、の、守護を、するのは、そうした、思惑が、ある。
で、より良く、育った、なら、その恩を、しり、恩返しや、お礼を、しに来る・・・と、期待している。
別に、何をせよ、かにをせよ、と、ゆう事は、なく、その、心使いを、喜ぶ?
で、機嫌が、良くなる、と、ゆうような、事も、ある。
自然=身の外 が、穏やかなら、身の内 も、穏やかに、なる=照応している。
毒沈や、人口削減は、神の田地 を、荒らす行為・・・神をも恐れぬ所業。
と、ゆう訳で、やたら、めったら、自然災害が、増大しているのかも、しれない。
とかく、人間は、勝手な、心使いで、神の、恩を、知らず、また、不足=不平や不満 ばかり、ゆう・・・と、それは、天の知る、ところと、なる=あれを願い、これを願い も、不足 に、なる、場合も、ある。
祭りとは、本来、神仏の、恩に、感謝する と、ゆう、もので、あり、何を願うでも、なく、報恩する、もの?
で、感謝、報恩 で、神の機嫌が、良くなれば、病が癒えたり、自然災害が無くなったり、はたまた、運が良くなったり、と、ゆう事が、ある。
願わずとも、見抜き見通し、と、ゆうのが、あり、神を実(じつ) と、して、認める、態度が、信仰者の在り方 と、なる?
たとえば、天理教では、おつとめ、と、ゆうものを、するが、これは、日々の感謝の行動で、あり、時に、日の寄進=ひのきしん と、して、つちもち=屋敷の土を、あっちから、こっち、こっち から、あっちへと、運ぶ、などを、する、報恩が、ある
相撲とかも、神へ、奉納する、もの?
と、まあ、報恩が、解脱する事に、関係する と、ゆうのが、ある。
・・・悟り と、解脱 は、別だけど、別でな、なく、関連する=五鞘が、取れると、悟りに、近づき、それは、神との合一=神の恩を知る、感じる で、自然と、感謝、報恩へと、向かう=解脱の元?