自分のもので、ないものを、自分の所有物と、思う と、考えてみる。


自己=自分の存在感 と、自分の意識=自我 は、違う、と、ゆうのが、二元論で、ある。


そして、これは、正しい、と、仮定してみる。


全ては、神のもの、と、ゆうとき、自分の所有物 と、ゆうものは、一切ない。


たとえば、肉体は、男で、心は、女 と、ゆうのは、肉体は、借り物の、身体=神のかしもの、で、心 一つは、我が物 と、ゆう、具合になる。


想い通りでは、なく、心通り、この、心と、ゆうやつは、我が物では、あるが、時に、神に、貸す=我が心を、神に貸す と、ゆう事も、ある。


神の思惑に、沿う、信仰に、おける、全託 と、ゆうやつで、ある。


その為、一切の所有物を、放棄して、心を、神に貸す と、神が、その他事、一切の、面倒を、みる、と、ゆうような事が、いわれる=この世は、神のもの、なので、この、心を、神に貸す=信仰 かわりに、その他、万事、神に、任す?


この、心を、貸す事が、不二一元 で、あり、二つ、一つの、理解なのかも、しれない。


対して、非二元論は、二元そのものを、認めない、ので、一切は、自分と、なる、が、それは、神の、立場から、この世は、一切、神のもの、と、ゆうやつで、あり、心一つは、我が物と、ゆう、ところが、抜けている? ように、思う。


自我は、自我意識 で、ある。


自己は、自己存在、自己存在感で、ある。


自己の、存在感は、自分では、分からない。


その、存在感の、調整は、神=この世一切の所有者 の、もの、で、ある。


・・・存在感が、増すのは、徳が増えるから=徳積 で、あり、徳がある人の、存在感に、圧倒されたり、するのも、それは、神に心を、貸す=神の思惑に沿う の、結果で、あり、神の、思惑から、外れると、段々、徳を失う=存在感が、薄れてくる・・・と、ゆう、理屈で、ある。


・・・神に、心を、貸す事で、自分が、神と、一つに、なる と、神人合一に、なり、人が、神になる、と、ゆう。