幻覚と、言われれば、それまでだが、意識して、それを、極める、と、考えてみる。


幻覚 か、そうで、ないか、は、体験している、本人には、分からない・・・と、すれば、もし、集団で、それを、体験したなら、それは、幻覚なのだろうか?


個人の体験なら、幻覚だが、二人以上の体験なら、現実。


もし、個人の体験を、現実に、する、方法が、あると、すれば、それは、悟り=愛=阿吽の呼吸=以心伝心=テレパシー の、ような、ものに、よる、のかも、しれない。


霊同士ならば、それは、難しい、事では、ないが、肉体同士では、一度、それを、物質上に、再現する事を、しないと、いけない。


では、霊 と、肉体 は、どの、ように、するのかと、いえば、霊は、霊物質を、用いる、と、なる?


サマディ=意識が、肉体から、離れた状態で、意識が、損なわれていない・・・と、する。


そこから、身体やら、家屋、地面、木々 など、ありと、あらゆるものを、物質的に、再現する=個人的な物質の体験。


この、体験は、物質の体験=霊物質の体験 なので、そのまま、記憶され、肉体に、戻っても、その、記憶は、鮮明に、残っている。


五感 と、感情を合わせて、六感 が、霊 と、肉体 の、間で、共有される、と、ゆう事に、なる。


夢見は、はっきりしない、と、幻、意識して、夢見を、見る、と、記憶は、鮮明で、ある。


と、言い出すと、どこから、夢見で、どこから、現実かの、境が、段々、曖昧になってくる・・・妙境 とか、ゆう、状態か?


・・・気の、コントロールから、次は、それが、物質=霊物質 の、創造 と、して、体験される・・・すると、何気に、意識 と、物質=現実 の、関係性の、ような、ものが、分かる・・・分かりかけるのかも、しれない。