数多くの、明晰夢見の中で、夢見の身体の、観察に、より、意生身とは、何か?、と、考えてみる。
先ず、夢見の身体は、感覚が、無い、と、ゆう、意見が、ある。
確かに、明晰夢見には、感覚のない、夢見と、感覚のある、夢見が、ある。
そもそも、何故、感覚が、あったり、なかったり、するのだろう?
そこで、身体内部の、気の流れ=情 が、関係している、と、ゆうのが、わかって来る。
たとえば、夢見の身体が、光るほどに、気が内部に、流れていれば、夢見の身体の、感覚は、はっきりしている。
逆に、内部に、光が、無くなると、感覚が、無くなる。
これが、色形は、有るが、感覚が無い と、ゆう、空性=空相 の、把握で、ある・・・と、思われる。
存在感と、ゆうのは、感覚が伴う 認識だから、内部の光が、色形は、無いが、存在感が在る=感覚の根底に在るもの とゆうふうに思える。
自分自身の存在は、無い=空 だが、内部の光に、よって、存在している・・・と、ゆうのが、二つで、一つ、不可分の、不二一元の、理解で、ある・・・。
・・・有情は、情の流れに、より、苦しみ、また、楽しむ のだが、本来は、感覚の無い=情の無い 空性 で、ある。
・・・有情で、あると、ゆう事は、内部に光が、ある=内部の神=身の内の神 を、持つ=徳がある=気持ちがある で、神の宮 と、ゆうふうに、考える=古神道系?