別に、仏教に、こだわるわけでは、ないが、悟り=愛 の状態 と、禅定=禅 が、どう関わるのか、考えてみる。

禅の言葉に、明鏡止水と、ゆうのが、あるが、それは、波一つない、水面が、鏡のように、ものを、写す事を、指している。

で、実際に、禅=禅定 の、場合は、本当の水 では、ないので、波も、本当の波では、ない。

波は形、で、鉄であれば、冷えて、固まっているようなもの。

そして、熱を、加えていくと、段々と、溶けて、形が、無くなって、行き、やがて、形が、無くなる。

画用紙だと、色々書いている神を、漂白して、真っ白にする、と、ゆうような、感じである。

そして、その、形が無くなる、漂白して、真っ白に、なる、と、ゆうのが、明鏡止水=鏡のように、全てを写す の、状態である。

エネルギーは、意識が、作用して、固化する と、ゆうのが、量子物理?で、あるが、全く意識が、作用しなければ、固化したものも、エネルギーの状態に、戻る=形が無くなる=原初=悟り=愛 の、状態に、戻る・・・と、ゆう事。

と、ゆうのを、禅=禅定 で、実践する・・・している?・・・出来るのか??。

身体を動かす、呼吸を、する、と、ゆうのも、意識=顕在意識、無意識を含む の、作用なので、完全に、意識が、作用しない、状態に、なるのは、難しい・・・と、思う。

まあ、目的は、その、明鏡止水の状態に、写す事で、願望が、現実化する と、ゆうのを、体現する為か?

これは、多分、クリアヨガ とかの方がより、実践的な気がする=クリアヨガが、どんなものか知らないが、扱うのは、気=クリアライト(クリアのクリアが、クリアライト だとしたら)

で、禅定=禅 は、気功の、一種 だと、思う。

・・・昔の大河ドラマ、独眼竜正宗 だったか?、禅 を、していて、誰かが、光が、見えましたか、と、質問していたが、その、光が、見える状態が、意識が、作用していない、エネルギーの状態=悟りの状態。

・・・部分的に意識の作用が、無くなれば、光の状態に、戻るので、何も、全体を、光に、戻さなくても、良い=意識が、作用するところと、意識が作用しないところが、あっても、構わない・・・?