悟りの境地 を、阿吽の呼吸 などと、いっても、解らないかも、しれない、と、考えてみる。

だから、ここにも、補足が、必要になる・・・か?

阿吽の呼吸が、超意識 と、繋がった状態=超意識そのもの と、考えてみよう。

阿吽の呼吸とは、あっ、と、相手が言っら、こちらが、うん。 と、了解する、意識状態で、ある。

その相手が、神=超意識 なら、超意識 が、あっ、と、言ったら、こちらが、うん。と、了解する、意識状態=超意識と、繋がった状態=超意識。

愛の境地を、阿吽の呼吸と、するのは、愛の境地=悟りの境地 だから、愛の意識も、また、超意識=夫婦の間の、阿吽の呼吸、親しい知人との、ツーカーの仲 も、超意識、自分の、思念、思考に、シンクロする事象も、超意識=阿吽の呼吸 と、同じ理屈?

意識と、超意識 には、境界線の、ような、ものは、ないので、知らず知らずに、超意識状態に、なる、事はあるが、逆に、知らず知らずに、超意識じゃない、状態に、なる事も、ある。

およそ、悟りの意識状態=愛の意識状態=阿吽の呼吸=シンクロの意識状態 の、時には、なんの、迷いも、なく、選択し、そして、その、選択は、正しい=その選択によって、上手くいく が、知らず知らずに、その、意識状態では、無くなってしまうので、内観が、必要になる=内観を、する為には、愛=充足 と、空=虚空=虚無 の状態 を、体験して、その、二点の、間の、どこら辺に、境地が、在るかを、見極める?

・・・まあ、迷いが、生じるのは、どっか、違うのでは、と、感じるから、だから、それも、超意識では、無い の、だろう、と、は、推察出来るが、それは、内観に、熟練した、場合だけ、かも、しれない=迷いを、無視して、進む事も、出来る=超意識でなくとも、意識は、分からない?