自分自身を、客観的に観るために、大河の一滴と、ゆうのが、ある、と、考えてみる。

それは、自分自身を、雨粒の、ような、ものと、考えて、天から、地上に降って来た時が、この世に、生を、受けた時である。

その、雨粒は、その後、地中に、潜ったり=地下水 集まって、小川になったり、小さな水溜まりに、なったり、する。

ある、雨粒は、水溜まりのまま、やがて、蒸発して、天に、帰る。

小川や、地下水は、やがて、段々と、集まって、より、大きな川、地下水脈 と、なり、大河と、なって、ゆく。

そして、やがて、海へと、至り、そこで、蒸発して、天に、帰る。

そして、また、天から、雨粒と、なって、降ってくるのである。

道=タオ の、思想とは、人生を、自然の、営み=大河の一滴のような事 に、結びつけて=フラクタル構造 説明する事が、多いように、思う。

・・・人体を、自然の、川や、山に見立てて、それを、動かすものを、意識と、ゆうのだが、人体に、意識が、あるなら、実際の、山や、川にも、意識が、あるのでは、ないか、と、考えるのが、風水の思想と、なるのだろうか?

・・・風水では、そうした、山や川の、意識を、龍 または、龍脈 と、ゆうが、山や川に、よって、意識がある=生きている と、意識がない=死んでいる と、ゆう、見分けを、する・・・のかも、しれない。

ご利益の、ある、神社や、お寺=霊験がある神社、仏閣 は、この、生きた龍の、要の、場所 に、ある?