続けて読むと、空気 に、なるが、そうゆう意味では、ない、と、考えてみる。

空=くう と、気 では、紛らわしいので、気とは、色形無き、実在と、ゆう意味での、気、あるいは、無(ム) と、考えたらば、よいかも、しれない。

空 と、ゆうのは、から とも、読め、から とは、からっぽ の、から。

からっぽ だから、存在しない、存在感が、ない、が、そこに、色形が無いから、認識出来ないが、在る=存在する=存在感が、在る 気=無=無我 が、重なる?か、ぴったり、と、沿うことにより、二つ一つで、色形があり、存在感が、ある、実在が、具現化?する。

たとえば、色形が、ある、空(くう) と、空(くう) は、互いに存在感が、無いので、認識できない。

たとえば、色形は無いが、存在感がある、気は、色形は、無いが確かに在る。

これを、先のが、不可触、後のが不可視 と、分けて、みれば、その意味は、分かりやすい、のかも、しれない。

人間には、五感の他に、気を、感知する、第六感 が、あり、色形が、無く、認識出来ないけど、気 と、ゆうものを、存在感 と、して、感知している?

そして、その、存在感を、感知する、第六感を、感性とか、勘 とか、呼んでいる=エネルギーを感知する?

その、感性とか、勘とかは、自身の、エネルギー量=境地の高さ に、よって、決まる、と、ゆうような、ものなのかも、しれない。

この、二つで、一つ 空(くう)と、気=無=無我 が、二つ一つで、現実が在る と、ゆうのが、不二一元の理解、空性=空相? の、把握である・・・のかも、しれない。

・・・無我の境地と、ゆうが、無我夢中となり、寝食を忘れ、我=色形が有る 空なるもの を、忘れ、て、第六感だけの働きとなり、聞こえぬ音=聖音オーム や、見えない光=クリアライト など、を、聞いたり、視たり、出来るのだろうか?