同じ事象のはずなのに、観方が違うと、考えてみる。

たとえば、チャイナコロナを、観た場合に、対処出来ない、絶望的な事態、と、観るか?、それとも、対処出来る、そして、そこから、あらたは、何かを、始める事とする、か?

新たな始まりは、チャイナコロナは、ウィルスの変異の操作、バッタは、駆除するのではなく、行動の操作により、餓死に、持っていく、食料危機は、食料そのものの不足ではなく、物資の、輸送と分配の問題=つまり、お金を、介した物流システムの限界が、食料危機とゆう、問題を、引き起こしている?

変異の操作、とか、バッタの行動を、操作する、と、ゆうのは、終わりの終わり、からすれば、不可能な、対処で、あり、また、お金とゆう、システムの限界が、食料危機を、招くのであれば、これは、終わりの終わりに、属するもの、と、ゆう事に、なるのかも、しれない=新しい物流、分配のシステムを、終わりの終わりでは、構築出来ない?

だから、それが、終わる=始まりの始まり 時は、それらが、出来る時、または、出来るもの、が、出てきた時。

・・・気象の操作、ウィルスの変異の操作、バッタの行動の操作、物資の量の把握と、行き渡る為の、物流と分配のシステムの構築、など、終わりの終わりでは、不可能と観る事象が、可能と観られるのが、始まりの始まり=人類の黄金時代?