下から二番目の霊界だが、型の世が無ければ、五感と、色んな形と、喜怒哀楽とゆう、創造のドラマを、観る事が、出来ない、と、考えてみる。


たとえば、この世=物質世界 は、低画像のテレビ、低スペックの PC のようなもの、最初から、高画像、高スペックの PC なら、それが、真実 と、なるだろうけど、実は、最初は、霊界の一番下から始まる=最初は、それが真実 となる。


だが、下から二番目とゆうのは、最初の真実=一番下、が、全て と、考えて、さらに、下がある、として、自ら、地獄を、造り出してしまう。


つまり、本当は、それより、下はなく、段々と、高画像、高スペック へと、移行していく、のみ、であり、一番下=最初の真実 に、執着して、あるいは、まだ、下がある、と、安心する、のは、間違いである・・・と、ゆう事ではないか。

まあ、小学一年生 が、いつまでも、小学一年生 で、いるのではなく、早く、小学二年生 に、進級しなくてはいけない、と、ゆう事になる のかもしれない。


より、高次な実体=霊物質と、霊物質からなる身体 は、物質 と 物質からなる身体 の、体験=型 が、あればこそ、はっきりと、天国のような体験 と して、味わえる と、ゆう事かもしれない。


物質世界、肉体では、出来なかった事が、霊物質、霊体 では、出来るようになる・・・それは、低スペックの PC から、高スペックの PC に、換わった、ような感じで、体験する。

この時、物質世界での、限界は、限界では、無くなる=霊物質、霊体でも、それに、見合う、限界はあるが、物質世界の、それよりは、遥かに、高い。


一番下に比べれば、全然、違うレベル=次元が違う と、なる。


今の、世界の、高山と、ゆうのは、下を作る=地獄を作りだす で、高山と、なっている・・・のかもしれない。


だから、この高山 を、真実 と、して、取り込む事 は、自分自身 を、制限してしまう事になる=自分自身が、一番下にいる、地獄にいる=地獄を作り出す事が、自分自身を、地獄に縛り付けてしまう、とゆうところから、上は、天国=つまり、地上に天国を実現する事は、自分自身を、天国へと、誘う=つまり、周りに、天国を作り出す=無私の奉仕とは、自分自身を一番下と見なして、支え、仕える=だけど、過度に、へりくだったり、自分自身を、卑下したりしない=一番下でも、真実があり、それを、尊重する=雛型の道?

・・・一番下だから、上も、下も、ないが、それでも、無理矢理、上や、下を、作るから、擬似的に、天国 や、地獄が、出来る、しかし、結局は、一番下で、天国と、地獄を、輪廻しているだけ・・・である・・・か?