苦行だけでも、快楽に耽る だけでも、悟りには、至れない、と、考えてみる。

悟りに至れば、生死は無意味 となる、と、ゆうのは、悟りに至ったら、数限りない、輪廻の目的が、達成された事になり、また、肉体では、学習を、終えて、肉体と、そっくりな、霊体 を、得て、輪廻を、解脱し、永遠に、生きる、のか? また、肉体意識を持って、苦しみ、悩む、諸衆を、救う為に、解脱せず、再び、肉体を纏う=解脱出来るけど、解脱せずに、また、輪廻する=菩薩道 を、選択する事が、出来る。


一度、悟りに、至ったものは、次ぎの、生死 でも、また、悟りに至り、そこから、未だ、悟りに至れない、悩む苦しむ、諸衆を、悟りへと、導く為の、手助けを、する。


悟りに、至れないまま、死を迎えてたら、また、生まれ変わり、悟りに至るまで、延々と、悩む苦しむ、輪廻を繰り返す。


釈迦は、数限りない、師の教えを請い、数限りない、想像出来ない苦行を、したのだが、ついに、悟りに至る事が、出来なかった。


もう、死ぬとゆうような状態となった時に、苦行を止め、スジャータだったか、の、ちちがゆ の、供養を、受けて、生気を、取り戻し、菩提樹の、たもとで、悟りに至るまで、決して立たない と、けっかふざ? を、組み 様々な、マーヤを、調伏して、ついに、悟りへと、至る。


釈迦は、悟りへと、至ったが、けっかふざ? を、解かず、そのまま、入滅しよう、としていた。


そこで、釈迦が、入滅してしまっていれば、正法=この場合は、正しい悟りの内容と、そこへ至る為の、方法 は、説かれる事は、無かったが、諸仏、神々の、請願を、受け入れて、けっかふざ? を、解き、菩提樹のたもとから、旅立った=正法を、説く旅に、旅立つ。


と、ゆう事で、あるならば、悟りに至ってからが、本当の、正法 であり、それまでは、分かっているけれど、分からない状態 である・・・のかもしれない。

・・・実際、自分自身で、体験しなければ、分からないような、内容のものが、多い


・・・続く。