五感と、それとは違う、第六、第七 の感覚があり、そうした、第六、第七の感覚は、五感に惑わされる、と、考えてみる。


そうした、惑わされた感覚を、錯覚する、と、ゆうのかもしれない。


神の化身を、五感の対象としてしか、認識して、なければ、五感で、認識出来なくなった、途端に、神の化身は、居なくなった、と、なる。


神を、五感以上の感覚で、認識していれば、神が、居なくなる、と、ゆう事はない。


たとえば、偽物の神は、如何にも、神である、と、ゆう、装いや、言動で、自分は、本当の神である、と、アピールする。


偽物でも、五感では、本当の神と、偽物の神 を、見分ける事は、難しい。


だから、時に、帰依者を試すのに、本当の神は、みすぼらしい、何の力もない、姿を取って、現れる。


心=第六感 と、歓喜=第七感 が、認識出来れば、難なく、見抜けるが、そうでないと、騙されてしまう、となる。


姿を消して、直ぐに、姿を変え、力も抑えて、現れて、いつ、気付くのか? 見抜くのか? と、待っている、のでは、ないだろうか。


五感以上の感覚は、五感にとらわれない、無執着と、第六感覚と、第七感覚を、識別する事が出来ないと、変に錯覚してしまう・・・のかもしれない。


・・・だから、一代目、ニニ代目を、知らない方が、変な、先入観が無い分、素直に、三代目を、認識してしまうのではないか?・・・何時、何処で、どんな姿で、とゆうのは、偽物を、防止する事も、出来るが、真の、本物に、注意が、向かないようにする、と、ゆう、使い方もある=本物を隠す。