固定された現実などない、あるのは、固定された認識 と、固定された認識の対称 との、波動の干渉 の結果、固定されたかのように、見える、現実があるだけ、と、考えてみる。


もの事を、思い込みで、視れば、そのように、見えてしまうし、認識の対称も、何故か、その様に、振る舞う、のかもしれない。


認識する側が、権力者、首相や、首相夫人で、認識される対称が、汚職そんたく官僚、と、いった、ところ。

まあ、それは、置いといて、現実を、固定されたもの、と、ゆう、思い込みが、ある、限り、現実を、固定する 力 は、認識する側が、与えている、とも、いえる。


だが、現実は、固定などしていない、と、思っても、現実は、やはり、固定して、動かないように、見える。

これは、物質次元を、固定化する、強力な、波動が、あり、その波動が、認識する側の、波動の、干渉よりも、強い、とゆう事だ・・・ろうか?


祈りとか、念とかが、認識される対称の波動を、変化させる程に強い時だけ、現実は、変化する。


すべては、相対性の内にあり、もし、認識する対称を、固定する 力=波動 が、弱まれば、現実は、認識する側の波動 に、変化しやすくなる。


心を、強く、より具体的に、無理のない、イメージ=波動 は、より、実現しやすくなる、と、なるのかもしれない。


ここでも、心の安定、バランス、安堵感、一体感、といったものが、重要になる。

よりバランスのとれた 心 は、波動が強くなっても、害かない=毒にならない。

やがて、そのバランスこそが、認識する側の波動を、強く出来る、唯一の、ポイントであり、そのポイントに、居続けていれば、不思議な事が起きる、と、気付いていくのかもしれない。

世に中には、別に根拠はないが、自信に満ち溢れ、楽観的な、人々がいて、何故、あれで、やっていけるのだろう? と、思うのだが、当人は、それで、やっていけてきたから、それでいられる、とも、考えられる。


楽である事=バランスがとれている、力まない事=出そうとしない、望まない、期待しない 、けれど、イメージは、具体的に、理 を重視して、しっかり持つ。


・・・自分が、信じるものに、感化される、と、ゆうのも、現実が変化していく、とゆうのを、体験する、方法の一つなのかもしれない。


・・・が、やはり、自分自身に、そうした、現実を変えていく 力 があり、それを、発揮する きっかけは、心の持ちよう=心の安定、安堵感、まあ、愛情溢れる状態 と、気付く方が良い。

・・・全て、妄想の仮説です、念の為。