感情は、どれも、猛毒である、が、最強の薬でも、ある、と、考えてみる。


免疫力も、癌細胞も、感情とゆう、肉体を、動かす、エネルギーを、受けて、発生するもの、とすれば。


感情を、自由に、コントロール出来たなら、どうなるのだろうか?


特に、最もバランスの取れた感情、その時に、胸中に生じる安堵感、とゆうか、一体感、とか、包まれている、溶け込んでいる、とゆう感覚。


たとえば、飼い猫が、いた、としよう。


家の外を、徘徊して、誤って、毒を、食べてしまい、身体が痺れて自由が利かなくなり、殆ど、目も見えなくなり、倒れ込むように、やっとの想いで家に、たどり着いた。


たどり着いたは言いが、最早、動けず、死を待つばかり。


まあ、動物は、死を理解出来ないかもしれないので、もう、死ぬ、とは、想わないのかもしれないが。


そこへ、飼い主が、現れ、その状況を、視て、この猫は、もう、死を待つばかり、と、判断する。


飼い主には、医学的な知識などないので、どうする事も、出来ず、ふと、死に際しては、死に水とゆう事があると、思い付く。


死に水とは、死にゆくものに、水を注す=最後に水気を与える。


飼い主は猫に、声をかけながら、口元に、水を、二滴、三滴と、含ませる。


さて、この、行為自体は、たいした事ではないが、飼い猫の、中では、何が起こっているのだろうか?


先ず、飼い主は、最早、この猫は、これまで、と、覚悟を決めているので、助けよう、としていない。その 心中 は、穏やかで、最後に、水気を与えて、看取ろう。


飼い猫は、飼い主の、心中、穏やかなる、波動を、感じ取り、また、声を微かに聞き取り、口元に、水気を感じ取り、ああ、飼い主が、そばにいる、と、安堵する。


果たして、飼い猫は、半時間後には、目が見えだし、自力で動けるほどになり、飼い主に、寄っていって、喉をゴロゴロと、鳴らすほどに。


と、ゆう事が、起こったのかは、分からないが、身体は、自分自身を、癒やす薬を、身体の内に、造り出しているのかもしれない。


免疫力も、癌細胞も、その、具現ではないか?


・・・まあ、猫は、九つの命を持つと、ゆうほど、生命力があるので、ほっておいても、回復したのかもしれないが。