型である肉体=身体 は、自分のものではない、と、考えてみる。

病み患い、痛む、肉体を、自分のもの、自分の意識、意図 で、どうにか出来る、と思う時、苦しみが、生じる。

深く、夢見の体験=夢身=意成身=報身 の 体験を、して、肉体は、自分のものではない、と、理解したものには、病み患い、痛みか、あっても、それによって、苦しみが、生じる事がない。

例えば、あの世 と この世 が、あって、これと、身体と服 に、置き換えれば、あの世 が、身体で、肉体や物質が、服 である。
どれ程に、服が立派でも、どれ程に、服がみすぼらしくても、服は、服であり、脱ぎすてれば、本当の自分=霊的な自分 が、在る。

さて、苦しみの原因は、この本当の自分 を、知らぬ事から、来るのだけれど、それは、服が痛む といって、心を痛め、と、ゆうところから、来るのである。
この世が、服で、自分のもの でないのなら、例えば、生 と 死 も、自分のもの ではなく、本当の持ち主が、いて、ただ、自分は、その本当の持ち主から、一時、借りているだけ、なのである。


と、ゆう、心境になれば、この世の事に、心が煩わされなくなる、のかもしれない。

・・・つまるところ、病もうが、患おうが、生きも死にも、神=一応、この世の持ち主を表して のものであって、これを、自分では、どうする事も、出来ない。

・・・ならば、全てを、神に帰して、全托 する、しかない、とゆう事になる。
・・・もしも、何かを、願うなら、この、全托 の中で、願う=この世の一切は、神に出来ない事はない、と、理解した上で、願う。