朝、太陽に呼ばれて写真を撮る。

今、昇ろうとしている太陽は偶然にそこに現れたわけではなく

何かを教えようとしてその場に現れているはず。

偶然を奇跡というのならこの世界に奇跡は起こりようがない。

ちゃんと理由があってそこに登場するのだ。

例えば苦悶。

苦しいといえばどこまでも苦しいはず。

それを肯定せず、頑張れ!というのは間違っている。

苦しいのだからその苦しさを味わうべき。

「 何で私が? 」は本来の自分を見失っている状態だと思う。

 

更に例えれば、フィギュアスケートで高度な技をやる人とそうではない人。

数字に換算すれば勝負なんだから単なる負けになる。

それは単純に正しい。

でも事実は違う。

今出来る最善のことをどれだけやり切ったか。

それが不完全だったとしても『今』としては充分ではなかったか。

そう思えば自分なりに良い得点がつけられる。

本当に満足のいく結果となる。

 

もっと例えれば、俗にいう神秘のパワースポット。

「 ここに行くと人生が変わるんだよね 」って表現。

さて、そこが問題。

それは本当なの?どこか依存してない?

こんなことが起きるんだよね!って信じきっていない?

結果論、起きるかもしれないし全く起きないかもしれないし。

それはひとりひとり確実に違う。(ここは言い切る)

つまり、儀式のお裾分けもいらないし全く必要ない。

望む人が行けばよい。それが正解だと思う。

 

それぞれが望んだ道に行く。

一見、合わなそうな道でもどっか必ず繋がっている。

自分本来の道に。

金運神社に行ったから金運が寄ってくる。

違うな。絶対に。

金運はお金の使い方の問題。

なんでもかんでも出せばよいというものではない。

 

重たい荷物を抱えて生きてきた人生。

死ぬ寸前で救われた話はたくさんある。

そんな人生を敢えて選んできた自覚があるかどうか。

それを神秘主義に例えて奇跡と呼ぶか。

それは自由。

でも生まれてくるには青写真がある。

生まれてくる前に全部決めて生まれてくる。

これは事実。

それを忘れてしまうのは大切なこと。

忘れなければ乗り越えられないから。

頑張る力が出せないから。

そして、本来の自分に戻せないから。

俗にたくさんいる『誰かの真似をしたがる人たち』が。

 

これは単なるお話。

ものすごく太ってしまったのでみっともない自分を責めた。

今更だけど仕方ないでは済まされない。

歩いたりスクワットをしたり好きでもない運動を繰り返していた。

結果、何も変わらなかった。

ダイエットは苦手だし運動も続かないし、根性では解決できない。

諦めてユーチューブで軽く出来る運動と腸もみを始めた。

一ヶ月ちょっと続けたけど(たまにサボりながら)成果はでない。

ところが気がつかなかったことが … … 。

二ヶ月過ぎた頃、「おや?少し痩せてきた」と。

太って入らなかったズボンが履けるようになり、顔も小さくなってきて

つい最近、鏡に映った自分のシルエットが目に見えて細くなった。

「ほんとに痩せてる!びっくり」

先日履いたズボンは太る前に履いていたもの。

あっさり入ってかなりゆるくなった。

諦めなくて良かった。

なにしろ、腸活の良さはお腹が丈夫になること。

近頃、体調は万全。

 

足の重心がしっかりしてくると歩けるようになる。

着かなかった足の指が簡単な運動ひとつで変わってくる。

一生懸命苦しみながらやった運動がどれほどのものか。

それはそれ。それが出来るのならそれでいい。

無理なら一番自分に合った方法を。

 

いろんな言い訳があるけれど逃げていても仕方がない。

やってみないと。

福山雅治さんもラジオで言ってた。

「 仕事で失敗したら仕事で取り戻さないと。

 ほかの事で頑張っても意味がない 」

人間関係もそう。肉体の問題もそう。

仕方ないと納得させるより色々とやってみるべきだ。

 

人間が自分で選んだ身体を信じる。

体型も病気も克服可能なことはかなり大。

持って生まれたなにかもきちんと意味がある。

ぎゅうぎゅう締め付けるより敢えて緩めて受け止めること。

頭でっかちは自分を見極める方法論にはならない。

 

本来の自分に戻る。魂の原点として。

なにも難しいことではない。

単に人にのみこまれないことだ。

あの人が良いと言ったからではなく、私が良いと思ったから。

そこからまず始めよう。

神秘のパワースポットなんてこの世にはない。

それは、今ここにいるあなただから。

自分がパワースポットになる。

努力は楽しいはずだ。

 

感謝を込めて。