松島を出発し、石巻・登米そして一関に5月12日に到着
一関にはひどい雨の中での到着であったらしく、平泉へは
翌日5月13日の訪問となります。

往復の時間としては6時間ほどだったようです。

平泉は平安時代、奥州藤原氏が治めた地。
遠く京にも並ぶか、それ以上の文化が花開く地でもありました。
藤原清衡、基衡、秀衡の三代が築いた平泉。
芭蕉も楽しみにしていたようです。

『三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
 秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。』

三代の栄耀とは、清衡、基衡、秀衡の三代が築いた平泉のこと
を指しています。

芭蕉が訪れた時には、当時の栄耀栄華からはかなり離れて
いたことだと思います。


芭蕉は高館の義経堂を訪れます。頼朝から逃げてきた義経
を秀衡が熱くもてなし、ここに義経は居住慕いました。
しかし頼朝の圧力に屈し秀衡の後を継いだ泰衡は義経を
この地で打ち取ってしまいます。


その泰衡も、頼朝との奥州合戦により破れ、百年続いた奥州藤原氏
平和で絢爛豪華な平泉文化も終焉を迎えたのだと思います。

ちなみに、鎌倉幕府の将軍となった頼朝でしたが、源氏将軍は
頼家・実朝と続きますが、頼家の子で実朝の猶子となっていた
公暁に頼家は暗殺され、源氏将軍も3代で終わることになりました。
何かの因縁かと感じざるを得ませんが・・・

芭蕉は、ここで杜甫の詩を引用して奥の細道のなかで
『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と述べ

『夏草や兵どもが夢の跡』

と有名な句を詠んでいます。

さらに中尊寺の本坊を訪れて、その後金色堂を訪ねています。

 

 

 


金色堂の須弥壇下には、初代清衡、二代基衡、三代秀衡、そして
四代泰衡の亡骸が収められています。
(泰衡は首級が納められています)

正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側から
すっぽり包む形で覆堂が建設されています。
本来ならば華麗な飾りも散逸し、堂宇も雨風で朽ち果てるべき
ところを、惟康親王は思うところがあって覆堂を設けたのだと
思われます。
芭蕉もこの覆堂越しに金色堂を参詣したと思われます。

『五月雨の降のこしてや光堂』

と、この金色堂を詠っています。この句も有名ですね。

近くには庭園や大泉が池で有名な毛越寺もありますが、
芭蕉はここには寄らずに一関に戻ったようです。


 

芭蕉が慕う西行も平泉には二度訪れています。


1度目20代後半の頃と推測されています。
旅の目的は、100年以上前の歌人・能因法師が訪れた

みちのくの歌枕を実際に巡ることでした。
このとき、奥州藤原氏は基衡の時代です。


2度目は文治2年(1186)、西行69歳、東大寺再建のための
砂金勧請に秀衡を訪ねたときでした。
西行はその目的を果たし、砂金450両が東大寺に送られました。
その後、義経をかくまったことにより鎌倉と平泉の対立すると
送金も途絶えたようです。

奥州藤原氏が滅亡した翌年(1190)西行は73年の生涯を閉じます。

 

 

※宮城県登米市、岩手県一関市、岩手県西磐井郡平泉町の
位置関係は次の地図の通りです。

5月9日早朝、芭蕉一行は塩釜神社に参拝します。


鹽竈神社は陸奥一宮とされ、御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神
左宮に武甕槌神、右宮に経津主神がお祀りされています。



武甕槌神、経津主神といえば、出雲の大国主命に国譲りを迫った
武神で、それぞれ茨城の鹿島神宮、千葉の香取神宮に祀られる
神です。

 

鹿島神宮

 

香取神宮


関東以北の精力に対してにらみを利かすためにそれぞれの地に
祀られたと思いますが、ここ塩釜も多賀城の近くやはり多賀城以北の
精力ににらみを利かすために、塩土老翁神がこの二柱の神を伴って
この地に鎮座したそうです。
その後、武甕槌神、経津主神は帰りますが、塩土老翁神がここに
残り、人々に塩作りを伝えたということです。

ついでに言いますと、塩土老翁神は神武天皇の東征を導いたことにも
なっています。活躍されていますね。


塩釜神社の境内には天然記念物の塩釜桜がありますが、
この桜を見ることも奥羽行脚の目的であったらしいです。
ちなみに今の桜は芭蕉が見た当時の桜ではなく、枯れたため
改めて植えられた桜ということです。


塩釜より船に乗り、松島を目指す。

千賀の浦・籬島・都島を見ながら松島に着船します。

雄島を見物し、翌日に瑞巌寺を訪れます。

 

 

籬島(まがきじま)

 

雄島

 

瑞巌寺


瑞巌寺の正式名称は松島青龍山瑞巌円福禅寺
(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。
平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、
現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷します。
今に伝わる桃山様式の本堂などの国宝建築を含む伽藍は、
伊達政宗の造営によるものです。

松島は、奥の細道の冒頭に「松嶋の月 先心にかかりて」とあるほど、
奥羽行脚の目的地の中に数えられています。
ただ、芭蕉自身はこの松嶋では句を詠んでいません。
弟子の曽良が
『松嶋や 鶴に身をかれ ほととぎす』
と詠んでいます。感動しすぎて詠むことはできなかったのですね。

この松嶋には芭蕉も訪れているようで「西行戻しの松」がこの近くに
あります。


西行法師が諸国行脚の折り、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、
松島行きをあきらめたという由来の地ということです。
西行もあとすこしというところで松嶋のそばにはいけなかったのでしょうか。

現在、松嶋湾を眺める高台に「西行戻しの松公園」として整備されていて
松嶋湾の眺めはばっちりなので、遠くから眺めただけで西行も満足した
かもしれませんね。

 

西行戻しの松公園からの松島湾を眺める


この公園は桜の名所としても有名です。
ただ、どの松が「西行戻しの松」であったかはわからないそうです。

多賀城で壷碑を見た芭蕉は、塩釜まで足を延ばし御釜神社に立ち寄ります

御釜神社は、宮城県塩竈市本町にある神社。現在は鹽竈神社の境外末社。
祭神は鹽土老翁神です。


ここには「塩竈」の地名の由来とされる竈が境内に安置される。
御釜神社には鹽竈神社の神器とされる4口の竈が安置され、
これらは「神竈(しんかま、神釜)」または「御釜(おかま)」と称されます。
「塩竈」の地名はこの神器に由来するという。

 


竈の中に張られた水は、干ばつの時にも絶えることがないといわれ、
日本に大異変があるときは水の色が変わるそうです。
東日本大震災当日も普段は赤褐色の色がきれいに澄んだ水に変わったとか。
不思議です。

その後、塩釜と多賀城の間を流れる歌枕にもなっている六玉川の1つ野田の玉川
により、多賀城に戻ります。

歌枕になっている「沖の石(興井)」と「末の松山」を訪れます。
この2つは多賀城市八幡2丁目あたりになります。
大学生時代、友人がこの辺にアパートを借りていたのでよく訪れました。


「沖の石(興井)」は住宅地の中にある池で、中に大きな岩があります。
宅地開発などで削られた後もないので、芭蕉が見た当時と余り変わっていないと思います。
近くを流れる砂押川の細い支流がこの池に流れ込んでいるようです。

 


「沖の石(興井)」から北に徒歩一分ほど、宝国寺の裏手に2本の松が見えてきます。
この2本の松そびえる丘が「末の松山」です。




大学生時代、芭蕉にはあまり興味がなかったので「沖の石(興井)」、「末の松山」も
凄さを感じておらず、もったいないことをしました。

芭蕉はこの後、再び塩釜に戻り一泊します。
翌日は塩釜神社、そして日本三景の1つ松島を訪れます。

5月8日、芭蕉は仙臺を旅立つ。

曽良日記には
『仙臺を立ち、十符の菅(とうのすげ)・壺碑を見る』
と書かれています。

私も仙台出身で多賀城にある大学に通いましたから
このあたりのことはわかるかと思っていましたが

十符の菅・壺碑のことはさっぱり。

芭蕉は今の仙台市宮城野区岩切のあたりを歩きます。


七北田川にかかる今市橋を渡り、西の方に六、七丁余り
あるいて「十符の菅」の場所(岩切新田)に至ります。

『おくの細道の山際に十符の菅有』

と芭蕉は書いています。

まず「十符の菅」って何です? ・・・ですよね。
調べてみると以下のように出ていました。

『「十符の菅」は、中世以来
 「みちのくの 十符の菅薦 七符には
    君を寝させて 三符に我が寝む」
  等と詠まれ、
 その菅は網目が十筋の菅薦の材料として使用される良質
 なものといわれ、陸奥の歌枕として知られていた。

 第四代藩主伊達綱村がこの地を訪れ、「十符の菅」の名所
 が荒廃しないよう菅守を設け保護し栽培することを
 家臣及び村中の者に命じた。』

歌枕にも読まれるほど、良質な菅材がこの地域で作られて
いたのですね。

「奥の細道」は芭蕉の紀行文のタイトルですが、実はその
由来は、この「十符の菅」が取れる「田の畔」のこととも
あるいは、今市橋から多賀城政庁に向かう道のこととも
いわれています。

こんな生まれ育った地に「奥の細道」の由来の地があったとは
驚きです。

芭蕉は、その後、多賀城碑に向かいます。
今では多賀城碑と呼ばれていますがこれが「壺碑」です。


芭蕉が訪れた当時は、雨風から守る覆堂もなく露天の石碑です。


この石碑は、坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)征伐の時、
弓の弭(はず)で日本の中央であることを書きつけたと言われるものです。


西行もこの多賀城の壷の碑を訪れて歌を詠んでいます。
『陸奥の奥ゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑そとの浜風』

残念ながら「壷の碑」が土中から発見されたのは江戸時代初めで
西行は実物は見ていないのです。
昔から多くの人々がこの碑の存在を信じて歌に詠んできています。

西行を慕う芭蕉がこの地を訪れないわけはないですね。
学生時代に行っておけばよかったと思います。歩いて2㎞ほどでした。

芭蕉は5月3日、伊達の大木戸を越え、伊達領に入る。
福島県伊達郡国見町大木戸

 


ここは、鎌倉軍を迎え撃つため平泉の藤原泰衡が設けた場所。
源頼朝が奥州藤原氏を攻めた折の激戦地です。

さらに芭蕉は、伊達家家臣 片倉小十郎の城下町白石に入り
ここに一泊する。

翌日5月4日、歌枕にもなっている「武隈の松」を訪れます。
宮城県岩沼市稲荷町


『桜より松は二木を三月越』

宮内卿 藤原元善の館の前に植えられた松が武隈の松
樹の根元が二股に分かれた「二木の松」として有名な歌枕
今も植え継がれて竹駒神社の西北に位置します。

竹駒神社は日本三大稲荷の1つとされています。
9世紀に小野篁が東北の鎮守として祀ったのが始まり。


ちなみに岩沼にある岩沼駅は東北本線と常磐線が合流する駅です。
岩沼駅は常磐線としての終点にあたります。

芭蕉は実際には雨と旅の疲れから訪れなかったのですが笠島
のことを詠っています。実際には行き過ぎてしまって行けなかった
ことが同行した曽良の日記には残っています。
宮城県名取市愛島塩手

笠島には平安中期の歌人である藤原実方の墓があります。
殿中で藤原行成と口論となり、これがもとで一条天皇より
「歌枕見て参れ」と言われ、陸奥守に左遷された方です。


笠島の藤原実方の墓には西行も訪れ、和歌を詠んでいます。

『朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて
   枯野の薄すすき形見にぞ見る』

新古今和歌集 793

実方中将は、不朽の名前だけを留め置いて、
陸奥の枯野に朽ち果ててしまった。
思い出のよすがに、すすきを見るばかりだ。

西行を追いかける芭蕉としては本来訪れたかったでしょうが
俳句だけは歌っています。

『笠島はいづこさ月のぬかり道』


芭蕉はさらに名取川を渡り、いよいよ伊達62万石の城下町
仙台に入ります。芭蕉は5月4日から7日まで滞在します。
奥の細道では、仙台に入った5月4日のことを
「あやめふく日也」と言っています。軒先に菖蒲を指す日ということです。
5月5日は端午の節句、菖蒲はつきものですね。

伊勢神宮では5月と10月の年2回
神御衣祭という祭事が行われます。

天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と
荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物を、
御糸、御針などの御料と共にお供えする祭事です。

神様の夏と冬の衣替えのお祭りと言われることもありますが
実際は新しい御料を奉ることにより、神様の御神威がさらに
増すことを願う意味があるということです。

この祭事は、皇大神宮と、第一の別宮で天照大御神の荒御魂をお祀りする荒祭宮
のみで行われるものです。豊受大神宮や他の宮社では行われません。

この和妙(にぎたえ)と荒妙(あらたえ)は、それぞれ松阪市にある
神服織機殿神社と神麻続機殿神社で奉織されます。

神服織機殿神社



 

神麻続機殿神社

 


地元の方々によって奉織されるのですが、面白いのは神服織機殿神社では
女性の方が、神麻続機殿神社では男性の方が奉仕されます。

神服織機殿神社



神麻続機殿神社


約2週間の奉織作業を行った後、出来上がった和妙(にぎたえ)と荒妙(あらたえ)
は皇大神宮に運ばれ、神御衣祭にてお供えされます。

5月(10月)1日  神御衣奉織始祭  神服織機殿神社と神麻続機殿神社
5月(10月)13日 神御衣奉織鎮謝祭 神服織機殿神社と神麻続機殿神社
5月(10月)14日 神御衣祭     皇大神宮と荒祭宮

最寄駅は近鉄斎宮駅あるいは漕代駅です。
神服織機殿神社へは7km弱、神麻続機殿神社へは5km弱です。

 

旧暦4月20日、芭蕉は芦野の遊行柳の後、境の明神に至ります。

 


関東(栃木県)側と奥州(福島県)側各々に社が建ちます。
ここが俗に白河関の跡だと思われていました。

 

下野側(栃木県那須町)の玉津島神社


陸奥側(白河市)の住吉神社


実際の白河の関跡はそこから東に2里ほど
旗宿という宿場に到着します。
一泊したのち宿の主人にその場所を尋ね
かつて白河の関があった場所だと思われる神社を訪れます。


源頼義、源義家、源頼朝そして西行法師も
この白河の関を越えて陸奥へと足を踏み入れたたのでしょう。

芭蕉もここまで、約ひと月の旅を続け、心境も変わったのでしょう。

 心もとなき日数重ねるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。
<現代語訳>
 心が落ち着かない日数が積もってゆくうちに、
 白河の関に差し掛かってようやく旅の心も落ち着いた。

奥の細道では、この場所での芭蕉の句はありませんが、
随行した曽良の句があります。

『卯の花を かざしに関の 晴れ着かな』

<句意>
(この関を越えるとき、古人は冠をかぶり直し正装に改めたそうであるが、
 いま私には冠や着替えの用意はない。せめて道端に白く咲いている)
 卯の花をかざしにして(それを)関越えの晴れ着にしよう。
      三省堂・新明解シリーズ「奥の細道」(桑原博史監修)より

旧暦4月20日(新暦6月7日)、芭蕉は芦野(栃木県那那須郡那須町芦野)

の遊行柳を訪れます。

 


遊行柳の遊行とは時宗のこと(一遍上人が開祖 鎌倉仏教の1つ)
藤沢にある遊行寺の歴代の住職が巡教で必ず参詣に訪れたことに由来。
時宗総本山 遊行寺

また謡曲 遊行柳では次のように演じられています

遊行上人が白河の関を越えて陸奥に入ると老人が現れ、
遊行聖が通った古道と朽ち木の柳を案内すると申し出、
柳の朽ち木を西行がここで休んで歌を詠んだと教える。
上人から十念を受け取ると柳の塚に消えて行く。
その夜念仏を唱えていると柳の精が現れ、十念により
草木までも成仏出来たことを喜び、柳に纏わる故事を連ねる。
やがて夜が明けると翁も柳の葉も消えて朽ち木だけが残った。

西行が奥州に下る際、この場所で休んで歌を詠んだのですね。
『道みちの辺べに清水しみず流ながるる柳陰やばぎかげ、
 しばしとてこそ立ちどまりつれ』

西行を慕う芭蕉ですから、時間を越えて同じ場所に立った
気持はいかばかりでしたでしょうか。

『田一枚植うゑて立たち去る柳かな』

西行と同じ場所にしばしたたずみ、柳の陰で休んだのでしょう。
時期は新暦では6月に入り、遊行柳の周囲でも田植えが始まって
居た風景を見ての一句でしょう。


東北への陸奥への入り口、白河の関はもう目と鼻の先です。

4月になり新年度がスタートしました。

この時期の行事で私たちがよく知っているのは、

キリスト教のイースター(復活祭)と仏教の花祭り

(灌仏会、お釈迦様の生誕祭)でしょうか。

 

 

『仏には 桜の花を たてまつれ』

 

で始まる和歌があります。

西行法師の歌集「山家集」春の章に載せられた

1首の和歌の上の句です。

 

花祭りのことを詠ったのかと思いますが

下の句は

 

『わが後の世を 人とぶらはば』

 

高校時代の古文で習ったような感じがしていますが・・・

定かではないです^^;

 

この「わが後の世」の「わが」は西行自身です。

 

口語訳では

 

私の死後、来世を祈ってくれる人がいるなら、

         供養には桜の花を奉って欲しい。

 

山家集には、前回紹介した

『願はくは 花のしたにて 春死なん

       そのきさらぎの 望月の頃』

そして

『花に染む 心のいかで 残りけん

       捨て果ててきと 思ふわが身に』

の3首がまとめて載せられており

 

世俗を捨ててもなお、桜は西行の心から

離れることがなかったのでしょうね。

 

まさに満開の桜に花吹雪も舞い、お釈迦様の

誕生を祝う花祭りが行われるこの時期。

800年前の西行の生きざまに思いを馳せてみませんか。

『願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃』

 

西行がなくなる十数年前に詠んだ遺言のような歌です。

如月の望月とは2月15日のこと。釈迦の入滅の日です。

 

「願わくば釈迦の入滅の日である2月15日ごろ、

 満開の桜の下で春逝きたい。」

 

という内容で、西行は実際には1日後の2月16日に亡くなります。

旧暦の2月ですので、新暦ですとちょうど今頃ということです。

 

今 関東以西では桜が満開を迎え、風が吹くと桜吹雪で

桜の花が散っていきます。

 

ただ、西行の生きていた時代にはソメイヨシノはまだなく

ヤマザクラということにはなると思います。

 

後世の多くの歌人たちが西行の作品をその人生とともに

敬慕してきました。

 

芭蕉もその一人なのです。