長らくブログの更新も怠っていました^^;

さすがにまずいと思いますので、今まで

撮りためていた写真や動画で神宮を紹介

していきたいと思います。

 

まずは外宮から。

神宮を参拝する気持ちで見ていただけると

嬉しいです。

 

近鉄宇治山田駅および伊勢市駅から歩いて

10分ほどで外宮前まで至ります。

 

横断歩道手前からはこんな感じ

2つの大きな檜の灯篭がお出迎え。

 

幟がいっぱい立っていますが、神嘗祭・新嘗祭

のころは各神領民(神宮のお世話をする町内会)

の地区名が書かれたものです。

 

灯篭ですから夜はこんな感じ

 

横断歩道を渡るといっぱい幟がありました。

 

意外とみなさんご存じないですが、この写真に向かって右側に

大正天皇お手植えの松があります。

 

ちょうど休憩所・喫煙所の脇にあります。

大正天皇お手植えの松は、ここ外宮と内宮、そして神宮神宮徴古館

にそれぞれ1本ずつの3本あります。
看板はありませんが柵で囲まれており大事なものであることを

意味しています。
お時間が有ったら見てみてください。

 

さて外宮の入り口である表参道火除橋前へ

向かって左側に由緒書きがあります。

 

外宮の神様である豊受大御神様は天照大御神様のお食事担当

ということでここ山田原の地に今から1500年ほど前に鎮座されました。

今でも朝夕のお食事を欠かすことなく天照大御神様のために

お供えする神事が執り行われています。

 

さて火除橋に向かいましょう。

 

外宮では左側通行。ここを渡ると神域です。

身を引き締めて渡りましょう。

正面奥に見えるのは第一の鳥居です。

さあ参拝のスタートです。

旧暦9月6日に大垣を出発した芭蕉は

旧暦9月11日に伊勢に到着します。

 

芭蕉が奥の細道を旅した元禄二年(1689)は

伊勢神宮第46回式年遷宮が斎行された年です。

 

奥の細道の旅のもう1つの目的は、

伊勢神宮の式年遷宮を見ることであったと

いうことができると思います。

 

伊勢到着を逆算しての深川を3月27日に

出発したものと思います。

 

大垣では二週間も逗留していますから

旅の疲れを癒すとともに、御遷宮の日に

あわせた調整をしていたのだと思います。

 

大垣から揖斐川を下り、伊勢長長島に到着

伊勢長島では大智院という寺に宿泊。

この寺は曾良の叔父が住職をしています。

 

伊勢長島からは舟で桑名に渡り、陸路で

伊勢を目指します。

 

桑名から東海道を南下、日永の追分(四日市)

で伊勢街道に入り、白子、津、松阪、斎宮、

そして伊勢へとおよそ十八里(約70km)の距離

を歩きます。

 

式年遷宮のクライマックス遷座式は

 

内宮遷座 9月10日

外宮遷座 9月13日

 

芭蕉が伊勢についた時点では内宮遷座は

終わっていました。

芭蕉が見たのは外宮遷座となります。

 

日程を芭蕉が間違えるのは考えずらく

最初から外宮遷座を狙っていたのかと思います。

 

以前内宮を参拝した時に、僧のような

姿であったため間近での参拝が出来なかった

ことも内宮遷座を目指さなかった理由かも

しれませんね。

 

遷宮を一目見ようと思うのは今も昔も

変わらないようです。

神聖な儀式でありながら、そのおかげを

いただこうと集まる多くの民衆の姿が

あったのでしょう。

 

 

 

その様子を見た芭蕉の句

 

『尊さに 皆おしあひぬ 御遷宮』

 

  (※季語は「御遷宮」 秋の季語)

 

人々の神様への畏敬の念と熱気、そして

その中に芭蕉自身もいるのだということ

が伝わる句だと思います。

 

西行法師も、伊勢神宮御祭日に参拝し、

幽玄な木立の中に見え隠れする社殿や

参進する神職たちの姿に感動し

 

 

『何事なにごとの おはしますをば しらねども

 かたじけなさに 淚なみだこぼるる』

 

との和歌を詠んだとされています。

 

三月末より記載させていただいた

奥の細道シリーズは、芭蕉の伊勢神宮

の式年遷宮参拝を持って完結とさせて

いただきます。

芭蕉は

「長月六日になれば伊勢の遷宮おがまん」

と旧暦9月6日に、木因・如行らに見送られて
木因亭の前から舟に乗り、水門川を経て
揖斐川を下っていきました。


 

奥の細道を締める有名な句を詠います。

 『蛤の ふたみに別れ 行秋ぞ』

蛤と言えば、揖斐川を下ったの桑名の名物。
ふたみは、蛤の蓋と身、それと夫婦岩がある
ことで有名な二見ケ浦も表しています。

 

見送りの人々に何度何度も振り返りながら

(二見しながら)別れを惜しむ意味と

これから向かう伊勢神宮への期待が

含まれており、お見事というしかない。



この句は、西行法師の句を意識して創られて
いるようです。
二見に草庵を作っていた西行が詠った和歌

 『今ぞ知る二見の浦の蛤を
      貝合とて覆ふなりけり』 

更に、芭蕉は奥の細道への旅立ちでの句

 『行春や 鳥啼き魚の 目に泪』

と見事に対をなしています。

「行春」で奥の細道の旅を始め、
「行秋」で奥の細道の旅を締める。

お見事というしかありません。

芭蕉は旧暦8月21日には戸田氏10万石の
城下町大垣に入っているようです。

大垣には2週間余り滞在することになります。
芭蕉の奥の細道の目的は奥州の歌枕の地を
巡ることと言っていいかと思います。

秋田の象潟を見分し、出羽と越後の境である
鼠ケ関を越えて奥州を出ると旅は足早になった
のかと思います。

深川を出発して鼠ケ関を越えるまでが3か月
鼠ケ関から大垣までは2か月ほど。

大垣では多くの門弟や俳友などに囲まれて
旅の疲れを癒したものと思います。

大垣に滞在中に、芭蕉は赤坂の虚空蔵に
参拝します。

 


真言宗の寺で、金生山明星輪寺。
日本三大虚空蔵の一つという。
(他は京都法輪寺、伊勢朝熊山金剛證寺)

 


朱鳥元年(686年)修験道の開祖
役小角(役行者)が持統天皇の勅願により
開基したと伝えられています。
本尊は役小角自ら岩に彫刻した虚空蔵菩薩。
秘仏となっていて拝観はできない。


参詣した日は旧暦8月28日
赤坂の虚空蔵の奥の院で句を詠んでいます。

 鳩の声 身に入(しみ)わたる 岩戸哉


なぜか山形の山寺での句

 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

と似ていると思ってしまいます。


あと一週間ほどでいよいよ奥の細道の旅が
終わります。

鼠ケ関を越えて越後の国に入った芭蕉は
村上に6月28日に到着。

「暑湿の労に神をなやまし、

        病おこりて事をしるさず。」

と奥の細道にも書かれている通り、
糸魚川の市振まで特に記載はありません。

村上に2泊し、7月1日に新潟に入る。
翌日には彌彦神社に参詣しています。




彌彦神社は越後国一之宮です。
御祭神は天香山命、天照大御神のひ孫に

あたります。

 

神武天皇即位四年、天香山命は越の国平定

の勅を奉じて日本海を渡り、米水浦に上陸。


当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を

授けられ、後には弥彦の地に宮居を遷されて、

国内の悪神凶賊を教え諭し万民を撫育して、

稲作・畑作を始め諸産業の基を築いた、

とあります。

彌彦神社の参拝の仕方は出雲大社と同じく
二拝四拍手一拝です。

象潟から酒田に戻った芭蕉は7泊したのち
浜街道を西へ向かいます。

多くの俳句仲間に送られ酒田を6月25日
に出発し、その日は大山に宿泊。

大山からは海岸の三瀬へ出て、あとは海浜
沿いに、波渡崎、堅苔沢、鬼かけ橋、塩俵岩、
立岩などの岩礁を見ながら南下します。


今の国道七号線「おばこおけさライン」にあたります。

今のJR羽越本線 温海温泉駅の少し北の
街道沿いの場所に芭蕉は宿泊します。

温海から約8kmで鼠ヶ関があります。
古代、白河、勿来と共に奥州三関と詠われた
念珠ケ関の地で、江戸時代は庄内と村上両藩の

境、現在でも山形と新潟の県境となっています。

 



鼠ヶ関の近くには小さな岬となった弁天島があり
ここは義経・弁慶一行が平泉に赴く際に能登から

佐渡島経由で上陸したという話があります。
この場所にも、『勧進帳』の安宅関同様のことが
あったともされています。





「奥の細道」の原文では越後路という部分にこの

鼠ヶ関が出てきます。
 

 『
  酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望、

  遥〃のおもひ 胸をいたましめて加賀の府まで

  百卅里と聞。鼠の関を こゆれば、越後の地に

  歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。
  此間九日、暑湿の労に神をなやまし、

  病おこりて事を しるさず。

   文月や六日も常の夜には似ず

   荒海や佐渡によこたふ天河
 』 


松島、平泉、象潟を頂点とした「みちのく紀行」
はこの鼠ヶ関に到達したことで一応の完結をみます。

この先、「奥の細道」結びの地である大垣までは

一気に話が進むようです。
 

酒田に逗留していた芭蕉は象潟を目指して

6月15日に出発。しかし15日は雨が激しく、

秋田県の県境近くの吹浦に宿泊。

翌日16日から18日を象潟で過ごします。
象潟は芭蕉が訪れた頃は、松島のような

入り江に多くの小島が点在する風光明媚な

場所で、歌枕の地として知られ、古今和歌集

や新古今和歌集などにも詠われた場所です。


『象潟は、紀元前466年に鳥海山が噴火し、

発生した大規模な山体崩壊による流れ山が

日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな

島々ができあがった。
やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって

仕切られて潟湖ができた。
そして小さな島々には松が生い茂り、風光明媚

な象潟の地形ができあがった。
東西の長さは約2km、南北の長さは約3km

江戸時代には「東の松島 西の象潟」と呼ばれる

ほどででした。

しかし文化元年(1804年)の象潟地震で海底が

隆起し、陸地化した。
その後、本荘藩の干拓事業による水田開発に

飲まれ、歴史的な景勝地は消されようとして

いたが、当時の蚶満寺の住職・二十四世

全栄覚林の機転や命懸けの呼びかけによって、

後に保存運動が高まり、今日に見られる景勝地

の姿となった。』
(ウイキペディアより引用)

 




芭蕉は松島と象潟を比べて

『松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し』

と評しています。

「憾み」は「物足りなく残念に思うこと」
という意味です。

この象潟では、有名な

 『象潟や雨に西施がねぶの花』

という句を詠っています。

雨に濡れる合歓の花に、病んで眉をひそめる

美人西施の風情をみて、象潟の憂愁の景色を

詠った句となっています。

 


西施は中国周代の越の美女。越王勾践が呉に

敗れた結果、呉王夫差に献じられ、夫差は

その西施の美しさにおぼれて国を傾けたという。

芭蕉は18日には、再び酒田に戻り、

さらに七日間逗留します。

芭蕉は最上川を下り、羽黒山麓にいたり南谷の別院に入ったのが6月3日です。
以後6月10日に鶴岡に赴くまで、羽黒山南谷に7泊、月山の山小屋に1泊して
出羽三山を巡礼することになります。

出羽三山については以下に説明を記載します。

出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。
月山神社は、天照大神の弟神の月読命を、

 

 

 


出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神と稲倉魂命の二神を、

 

 

 


湯殿山神社は大山祗命、大己貴命、少彦名命の三神を祀っています。


月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能となり、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。
また広大な山内には百八末社といわれる社があって、やおろずの神々が祀られています。


出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽(けらく)、等々を祈願する“聖地”でした。
加えて「羽黒派古修験道」の“根本道場”として、「凝死体験・蘇り」をはたす山でもある。
すなわち、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度の霊山」として栄えてきたお山である。

三山が神仏習合であった時代、三山を抖擻(とそう)する修行を「三関三渡」といった。
羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は阿弥陀如来(過去)、葉山や薬師岳は薬師如来(未来)とされ、それらの加護と導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、湯殿山の大日如来(三関を超越した世界)の宝窟に安住し、即身成仏(生きたまま悟りを開く)の妙果を得るというものである。
裸足になって湯殿山神社のご神体に登拝するのは、大日如来と一体になって感得することである。
また湯殿山は神の世界ゆえ、古来より人工は許されず社殿を設けないのである。

江戸時代には、西の伊勢参りに対して、東の奥参りと称して、両方をお参りすることが「人生儀礼」の一つとされ全国からの参拝者で賑わいました。

芭蕉も湯殿山神社の御神体に登拝して詠んだ句
 

 『語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな』

「奥の細道」の本文では、
『そうじてこの山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。

よりて筆をとどめて記さず。』
とあります。

決して他者に語らず、記録にもとどめずということなのですね。

5月28日、立石寺を発った芭蕉は大石田に到着。
大石田で3泊することになります。

芭蕉が訪れた当時は最上川を使って酒田へ下る
川船の発着所として栄え、のちには川船役所(船番所)
が置かれたほどです。


現在大石田には、山形新幹線(奥羽本線)の大石田駅が
設置されています。
鉄道が敷かれているほど昔からの交通の要所であったことが窺えます。


最上川のことを説明すると以下の通りです。

『最上川(もがみがわ)は、山形県を流れる一級河川最上川水系の本川。
流路延長229kmは、一つの都府県のみを流域とする河川としては日本国内最長である。
流域面積は7,040km2で、山形県の面積の約75%にあたる。日本三大急流の一つである。
山形県米沢市の福島県との境にある吾妻山付近に源を発し、山形県中央部を北に流れる。
新庄市付近で西に向きを変え酒田市で日本海に注ぐ』


芭蕉は大石田で俳諧の指導を請われて有名な句を残します。

『五月雨を集めて涼し最上川』

芭蕉は大石田からは船には乗っておらず、新庄まで歩いています。
後に、最上川を下って出羽三山に向かうことにはなりますが、
その時の、五月雨で増水した最上川を下る際にあやうい思いを
したことから、のちに

『五月雨を集めて早し最上川』

と「奥の細道」に載せられる句に改作されたものです。

花笠音頭にも謡われる尾花沢。
私のイメージの中には、幼いころ実家の近くまで
軽トラックで尾花沢スイカを売りに来ていたのを
思い出します。


尾花沢には、NHK朝ドラ「おしん」の舞台にもなった
銀山温泉があります。
行ったことはないのですが、雪景色の銀山温泉の風景は
絵になりますね。


山寺として有名な立石寺。天台宗のお寺で正式名称は
宝珠山阿所川院立石寺、本尊は薬師如来。
貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山。
円仁が開山した四寺(他は中尊寺・毛越寺、瑞巌寺)を巡る
「四寺廻廊」を構成しています。
芭蕉は毛越寺は素通りしましたが、そばを通ったということで、
四寺クリアと言っていいでしょうか(笑)

山寺というだけあって階段の段数が1015段、往復1時間半ほど。


芭蕉がここ山寺を訪れたのは5月27日(新暦7月13日)
朝6時半に尾花沢を立ち、午後3時ごろ立石寺に到着して、
預り坊に宿をとり、その日のうちに「山上・山下」の巡礼を
終えています。


芭蕉も汗をかき、蝉の声を聴き1015段の石段を上ったのでしょうね。

『閑さや岩にしみ入る蝉の聲』

が有名ですね。
でもこの句は「奥の細道」を出版するにあたって推敲された結果で

初案は「曽良旅日記」によれば

『山寺や石にしみつく蝉の聲』

だったということです。

それが

『さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ』

という再案を経て最終案に至ったようです。

 

山寺の五大堂からの眺めは素晴らしいです。
ここまで登ってきた疲れも吹き飛んでしまう眺めです。


 

 

私が始めて山寺を訪れたのは小学6年の秋の遠足です。
今ではなくなってしまっていますが、近くに芭蕉園という遊園地
があり、コーヒーカップに乗った記憶があります。

芭蕉は、翌日最上川の発着所のある大石田に向かいます。
そこではあの有名な句の初案が詠まれます。