感想 『やせる石鹸』 | 遊びはじめ

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地味なもの書きによる、「他愛もない話」綴りです。

 友人のレビューを書くのは照れる。というか、ほとんどしたことがない。

 レビューを書きたい気持ちはあるのになかなか実現しない。内輪褒め的な立場になるのを懸念して、というより多分に照れがあるのだと思う。あと私なんかが書いていいのかなというジレンマな(笑)

 歌ちゃんに話を戻そう。

 私はそもそも彼の漫画のファンだった。
 ジャンルの違うもの(漫画)ならいくらでもレビュー(なんて偉そうなもんじゃない、ただの感想だ)を書ける。私は絵を描く人、描ける人を異様なまでに崇拝している。
 だからこれまで読んだ歌ちゃんの本についてはこのブログでも偉そうにレビューを書いてきたのだ。

 漫画家・歌川たいじ。

 可愛い絵柄・ギャグセンスとは裏腹に、そのメッセージは鋭くて、何度も胸をえぐられた。
 その痛さにハマったのかもしれない。

 歌ちゃんに初めて会ったのは2010年。以降、拙作を読んでもらったり、愚痴を聞いてもらったりした。福岡に来るたびにそのキラキラしたオーラをたくさんわけてもらってきた。

 その歌ちゃんが小説を出したという。

 ……レビュー書くのやめとくか? 

 葛藤がなかったとは言わない。

 でも友人としてではなく、ファンとして書けばいいんじゃないかと思い当たった。もともとそうなんだし。

 てことで以下の駄文は(一応作家)清水朔のレビューではなく、一介のファンによるただの感想(作文)である。

  よろしければ「やせる石鹸」読んでから、下記お読みいただければと(汗)

 ご笑覧くださいましたらありがたし(拝)。

                ◆◇◆◇◆◇
 

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                   『やせる石鹸』 歌川たいじ

 タイトルはずいぶん前に教えてもらっていた。ダイエット関係だとすぐにわかる。まさにダイエッターである私は、早く読みたくて仕方がなかった。

 主人公・たまみ。巨デブ女(※なおここでも意識的に『デブ』という表現を使用する。了承いただきたい)。

 言葉の使い方に毒があるのはこの作者ならではだ。敢えて毒と笑いを含んだ表現を多用している。

 文章はこなれている。しかも電車の中で思わず吹き出すくらい面白い。読みやすい。

 だから読み手はあっさりと読み飛ばすだろう。

 しかしその毒はじわじわと後で効いてくる。

 ――ねえ、デブって笑える存在でなくちゃいけないの?

 ――デブは痩せた人たちの顔色をうかがって生きていかなきゃならないの?

 ――問答無用でデブを責めても笑いに変換すれば責めた行為は許されるの?

 ここには長らく作者が自身が抱えていた疑問が根底にある。


 ふと思った。昨今のバッシングの過熱さには眉をひそめるものもあるが、日本人とは元来そういう部分を持ち合わせている民族ではないか。

 ――すなわち『一度ケチがつけば全否定』。

 人間性・知識・コミュニケーション力に優れていてもケチがつく。「あの人、太ってなければ完璧なのにねえ」。

 テレビの影響か、『デブ=笑い』あるいは『デブ=悪』とする見方も大半だ。

 至上なのは、痩せていること、みんなと同じ格好でいること、流行から遅れないこと、若いこと。欠点がないこと。

「みんながしているから、あたりまえのことじゃん?」
 『無知』は考えることまで放棄して、右へナラエ至上主義となっていく。

 そもそも太っていることは悪なのか、欠陥なのか?(健康がどうのとか言う問題のすり替えは置いといて)。 

「えー、デブは自分の怠惰が招いたことでしょ。自分の責任でしょ」
 だったら問答無用で責めてもいいのか。みんなが責めているから、自分が乗っかって責めても許されるのか?
 ではたとえば、その原因が薬の副作用だったら? 病気によるホルモンバランスの乱れだったら? 心因性の病気だったら? 

 ――それでも痩せろと、口を極めて罵ることが出来るのか?

 人による理由による、という言い訳は聞かない。
 それは歴然とした差別なのだ。

                 ◆◇

 告白しよう――かくいう私もその差別をしていたひとりだ。

 かつて私はいわゆる美的競技に長年籍を置いていた。その競技の、それも全国レベルで戦う体育会系においてはまごうかたなき「デブ=悪」。重ければ一緒に飛んでもジャンプの高さがひとりだけ落ちる。痩せることは必須だった。

 特に全員が6つ子(今は5つ子か)並みにスタイルと技術を求められる『団体』のメンバーに入りたかったら、何を置いても痩せるしかない。メンバー枠をとるために血の滲むダイエットをしている選手は今も多いはずだ。

 競技によっては規則での体重制限もあるだろう。そういう特殊な場においては「太れない」というのは競技上の制約であり条件である。

 問題はその後だ。

 私は引退してから半年の間に、瞬く間に10キロ太った。選手時代のベスト体重起点なら15キロ、現在においては20キロだ。決して痩せてはいない。巨デブではないが、大デブだ。
 ダイエットしていないかと問われれば、万年ダイエッターだと即答する。

 『デブ=悪』だと選手時代に思った。そしてそれは当時ならば間違っておらず、その思いが自分に向いている限りにおいては『克己心』と言ってもよかったかもしれない。

 だが私も思っていたのだ。社会人になってさえ。 

 太った誰かをみて、ああはなるまい、と――。

 その裏にある差別の心に気づかないまま。

                 ◆◇

 作者はゲイだ。そこに顔をしかめる人はこの本を読まないかもしれない。
 同時に差別している自分を意識しないまま一生を終わるかもしれない。

 人種や体型やLGBT。少数は悪か? 自分と違えば責めていいのか。
 「みんなと同じ」が全て善なのか。その「みんな」の価値観が間違っていた時代がなかったと言えるのか。

 読みながら我が身を振り返る。そして気づかされる。

 痩せることが悪いとは言わない。――でも太っていることも悪ではないのだと。

 健康上の理由で痩せる必要がある人は頑張ればいいし(私だ!)、痩せる気がない人はそのままでいい。

 つまり『外見(デブ)は責めてもいい』という今の社会の、おかしな暗黙の風潮を止めようということだ。

 それは『人種』や『LGBT』にも置き換えられる。

  「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ八章七節)

 声高に誰かを責められる、罪のない人がどれだけいるだろう。

 たまみには、ゼリーというトラウマ、脳内で恫喝してくる食欲中枢の神様がいる。 
 心無い周囲に責められ、責められたことで自分をも責めるのだ。そして心を弱らせる。

 この時代、デブでない人にもそういう災害は起こり得る。
 ネットで見ず知らずの人に叩かれたり、ラインでいじめられたり。そこで心を弱らせる人のなんと多いことだろう。根性論で心を強く持てなんて言えない。そんなのどだい無理なご時世なのだ。

 彼女が大事にしていた言葉――希求。

 それは痛いほど病んでしまった人たちへ、自信を喪失せざるを得なかったみんなへ、作者が贈る希望の言葉だ。生き抜いていくための武器だ。

 もちろん周囲も変わるべきだろう。
 しかし最終的には自分への自信と愛があって、初めて乗り越えられるものなのだと、たまみを通じて学ぶことが出来る。

 人と関わること。優しくなること。強くなること。傷つくこと。這い上がること。自信を持つこと。愛すること。

 たくさんの人に読んでもらって、見つけて欲しいと思う。


 どん底にいるあなたが真に冀(こいねが)う―何かを。


 読んで元気をもらえる。知らなかった何かに気づかされる。
 その喜びはすべて――章末の鏡の前の彼女の姿に集約されるだろう。

                 ◆◇◆◇◆◇ 

 歌ちゃんは、人と違うことを悪だととらえがちな社会に、笑いと読みやすさでコーティングした鋭い矢を放ってきた。
 これは社会が受け止めるべき作品だ。

 ……おまけに女性以上に女性らしい視点で書かれてもいる。これって男性作家じゃなく女流作家なんじゃない? でも男性の力強い部分もあって。
 もう男性女性で作家をわけるの、やめませんかね書店さん。

 小説っていう隠し玉(シモの話じゃなくてよ)の話はずいぶん前に聞いたけど(それこそ何回も最終に残るだけの私を慰めてくれる時に)、まさかこんな本格的な作品だとは思ってなかった。

 でも形にしてくれたおかげで何回も読める。 ありがとう。 

 私は歌ちゃんに会って、簡単に外見をハラスメントしないことを学んだ。
 この本はそれを学べる大事な機会だ。いっそ全国の中学校・高校に指定図書で置いてほしいくらい。

 いろいろ堅苦しいことを喋ったが、こんなレビューはスルーしてもらっていい。

 ただただ笑って欲しい。

 最後まで疾走するかのような躍動感と、そこかしこにちりばめられた笑いと感動を共有して欲しい。
 
 ……大丈夫だよ、必ず読後に何か残るから。

 それが歌ちゃんがあなたに蒔いた『未来の種』だから。