自分を超えた生命体の「私」としての存在視点

面白いことに、重く息苦しい体に入っている時の自分としての視点と、体から出た視点で物事を見つめている自分を超えた生命体としての視点と云う見方が生まれたのは、あらゆる思考で分析しながら、誰かの書いた、あるいは誰かの感覚を記した書物から絞り込んでいった視点に、自分の考えとこれまで培ってきた視点を融合させたもう1つの別の視点での感覚的受け取りがあった事実がある。

いわば、自分で考えたものではないのだが、その視点に立ってみることをしただけだ。

ここから、ここまでといった制限や狭さや限界を感じなかった。

ましてや、息苦しさなど一切なかった、その感覚の中で私は上空から己の姿と相手との両方を眺めていた。

両方の感覚が入ってくる。 それをただ中心の意識で’感じとる新しい生命体として意識を感じていた事実があった。

痛みを感じない。心の痛みを感じていない。

相手へのこだわりやジャッジの視点を感じないその場所で、私は壮大な神様というエネルギーの少しばかりを感じていた。

 

固形に見えた人間の肉体という物体が、粒々の慰留し砂のように消えていって、それぞれの思いを表す粒たちがきれいにどこかへ吸収されていくのを映像で’感じられた。

そのあとは、クリーンなエネルギーである感覚を感じて、ただそこにある(存在している)生命体的存在という感覚だけが残る。

 

体に入って聞いていたら、相手と私の間に’ある判断、思考が入っていくだろうことは知っていながら、クリーンなエネルギーを感じた時、何も問題となるようなひっかかりなどが一切なかったことが新鮮だった。

これは面白かった。 だが、続けるには、いつでも意識しなければならず、自動でというわけではないらしかった。

そして、意識する余裕があった時にだけ、上に上がる感覚を’持つと、そこに体だけを残し、感覚だけが上へ上がって視点を定めていた。

上に上がった時に、私の肉体を囲む存在に出会ったりした。

それが、アセンデッドマスターだった。

数人で私の肉体をの頭上を取り囲んで浮いている。

会話もしている様子だが、そこから肉体を残して移動したりした。

 

白く雪のかぶった雪山の手前上空で浮きながら、アセンデッドマスターが朝日に向かって指をさし、景色を見るように促してくる。

浮いている生命体としての私の意識は’、声として聞こえてこない会話?あるいは意識の交流らしい後には、魂レベルでの確実な理解があった。

それは、具体的にというわけではなく、感覚としてもう既に知っている自分がいた。