こんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。

 

昨日に続き、ホームページの方で1986年度廃車のキハ58形のイラスト公開を行いました。最近あまりパワーがありませんので、今日は3両のみの細切れの公開となりました。ある程度溜めようとするといつになるか分からなかったのでご了承ください。

 

昨日に続き、キハ58の103・104・106の3両です。この3両は似たような人生を歩んでおり、1962年1月に同一予算区分で和歌山に新製配置された後、京都発着の紀勢本線方面の列車を梅小路へ移管したことから全車梅小路へ転属し、その後1972年からは組織改正もあり宮原と向日町へ別れました。1980年代以降は紀勢本線の電化の影響もあり七尾及び亀山へ別れましたが、向日町・宮原時代に汚物処理装置を装備していたことから広島へ集められ、最後は広島で揃って1987年2月10日付で廃車となっています。

 

似たような人生を歩んでいた3両ですが、103は宮原から金沢経由で広島へ集まっており104・106とは異なるため、形態も異なっていました。104と106は新製年月日と転属日が数十日ずれている以外はほぼ行動を共にしましたが、微妙な形態の差があります。このように形態の差異を探すのも面白く興味深いですね。ちなみに、連番の中で公開されていない105は、全く違う人生を歩んで全く異なる形態になっていますが、1975年以降東北に移ってからの情報が見つかりません。どなたかこのキハ58 105の末期の情報をお持ちでしたら頂けると幸いです。

 

では103・104・106を見てみましょう。

 

↑キハ58 103

放送用ジャンパ受栓の位置が関西(宮原)時代の名残を残しており、またシャッター式に改造されたタイフォンも、宮原で急行「ゆのくに」「ちくま」で活躍した名残である。また、運転室側のワイパーがWP50へ更新された際に運転室窓下の手すりが無くなっており、更にテールライトが運転席側のみ外ばめ式に改造されており、金沢時代の名残も残していた。宮原と金沢の特徴がミックスした独特の形態であった。

 

 

↑キハ58 104

宮原と異なり、向日町では温暖な紀伊半島方面で活躍したためタイフォンは暖地向けのスリット式カバーのまま。放送用ジャンパ受栓の位置は同じく関西地区の特徴を残している。概ね下の106と似ているが、当車はワイパーがWP50へ更新された後も正面窓下の手すり長さが原形と同じで、広島時代にワイパーが更新されたものと思われる。また、寒冷地配置の実績がないのにデフロスタが左右両側に付いており特徴的である。

 

↑↑キハ58 106

特異点の多い103・104と比べ、オーソドックスな向日町タイプの形状をしている106。104と比較的似ているが、助手席側のワイパーの形状(当車は1本腕)、正面運転席窓下の手すりの形状(当車は短い)、デフロスタの数(当車はオーソドックスな運転席側のみ)、テールライトの形状(当車は左右とも外ばめ式に改造)、運転席側のタイフォン横のステップ(当車はステップが撤去されている)、正面窓上の手すり上の「架線注意」の札が無いなど、相違点は多い。

 

次回は110番代を公開できるかと思います。皆様お楽しみに。

 

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