(続き)

聖武天皇

他に徳のない状態として、皇位を継ぐ男系男子が生まれないこともあります。

聖武天皇はこれに悩まれた天皇です。光明皇后との間に生まれた基王は夭折し、非藤原の男子しか生まれませんでした。それゆえつなぎとして阿部内親王が史上初の女皇太子となりました。

聖武天皇の時代には、それ以外にも凶作による飢饉、大地震、疫病が流行り、貴族による反乱も有り、天皇も病弱でした。この時の地震は阪神・淡路大震災級だったことが近年、古代史と地震学の学者によって明らかにされています。

聖武天皇、仏教への深い帰依 きっかけは大地震?
2006年03月10日

  $やまとは 國のまほろば―ひなげしのブログ-734年の地震

 国分寺や東大寺大仏の建立を命じたことで知られる聖武天皇(701~756)が行幸した直後にその一帯で阪神・淡路大震災級の大地震が起きたとみられることを、岡山大の今津勝紀・助教授(日本古代史)と隈元崇・助教授(地震学)が明らかにした。仏教への深い帰依のきっかけになったのではないかという。4日に奈良市の奈良文化財研究所である研究会で発表する。(杉本潔)

 この地震は734年4月に起きた。大阪を南北に走る生駒断層帯が動いた直下型とみられ、マグニチュードは7.0~7.5で、7.3の阪神・淡路大震災並み。
 聖武天皇は地震直前の3月に難波宮(現在の大阪市)を訪れ、竹原井頓宮(かりみや)(大阪府柏原市)をへて平城京(奈良市など)に戻っている。隈元さんらは政府の地震調査研究推進本部による評価などから、震度分布図を作製。天皇の行路周辺は震度6弱以上の強い揺れに見舞われたと推定した。
 天皇は地震後の7月、「最近天変地異が多く地震もあった。責任は自分一人にある」として大赦を実施。同じ年には「人々の命を全うさせるために」と写経を、翌年には読経も命じた。
 今津さんは「訪れたばかりの地が震災に見舞われたことに衝撃を受け、仏教への帰依を強めたのではないか」とみる。
 京都女子大の瀧浪貞子教授(日本古代史)は「皇太子の夭折(ようせつ)や光明皇后の影響など、聖武天皇が仏教に帰依する下地はすでにあったが、この地震によっていっそう強まったことは十分考えられる」と話している。

(朝日新聞東京本社発行 3月3日付朝刊)


また、疫病(天然痘)では政府高官のほとんどが死亡するという惨状で、光明皇后の兄であり、後の南家、北家、式家、京家と呼ばれる藤原四家の祖、藤原四兄弟も死にました。

この状態を打開するために、世界最大の金銅仏・奈良の大仏と全国に国分寺と国分尼寺を造るという国家プロジェクトを行いました。この世界でも類を見ない大きな国家事業を当時の世界では辺境で、しかも裕福とはいえない日本が行ったのです。

疫病や飢饉を治めるのに、かえってお金のかかる大仏を造ることは現代人の感覚からは矛盾しているように感じるでしょう。しかし、当時は地震や疫病などがおこるメカニズムは分かっていませんでした。

ところで、奈良の大仏はなんの仏様か知っていますか?奈良の大仏は盧舎那仏(るしゃなぶつ)と呼ばれる如来様です。
盧舎那如来は仏教の教えの真理(宇宙)そのものとされてます。
仏教の真理である盧舎那如来の教えを生身の人間は知ることができないが、釈迦如来がその悟りを得て、人々にその教えを広めているということだそうです。

重要なことは、この奈良の大仏、盧舎那仏は当時の最先端の科学や技術だったことです。今の我々感覚で言うと、最新のスーパーコンピューターやIP細胞のようなものと考えれば良いでしょう。聖武天皇は最先端の科学をもって後継者問題や飢饉・天災・疫病などを解決してしまおうと思ったのです。

743年(天平15)の聖武天皇の詔(みことのり)をみてみましょう。

 朕(ちん)薄徳(はくとく)を以て、忝(かたじけな)くも大位を承け、志を兼済(けんさい)に存じ、勤(つと)めて人物を撫(ぶ)す。
 率土(せつど)の浜(ひん)すでに仁恕(じんじょ)にうるおうといえども普天(ふてん)の下、いまだに法恩に浴せず。誠に三宝の威霊に頼りて、乾坤(けんこん)相泰(あいやす)んじ、万代の福業を修めて、動植ことごとく栄えんことを欲す。
 ここに天平十五年十月十五日を以て、菩薩の大願を発し、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像一躯(く)を造り奉る。国の銅を尽して像を造り、大山を削りて、以て堂を構え、広く法界に及ぼして、朕が知識となし、遂に同じく利益を蒙りて、ともに菩提を致さしむ。
 夫(そ)れ天下の富を有(も)てるものは朕なり、天下の勢い有(も)てるものも朕なり。
 この富と、勢いとをもって、この尊像を造る。(略)
         『続日本紀』(原漢文)


(訳)
 朕(聖武)は徳薄い身でありながら天皇になり、国民のすべてを幸福にしなければと常に志してきた。そして今、ようやく人々を朕の仁政でうるおすことができたが、まだ全国民を仏教の恩恵に浴させてはいない。そこで、なんとかして、仏の威光と霊力により天下が安泰になり、万代(よろずよ)の幸福を願うことによって、この与野すべての生命が皆栄えることを望むものである。
 ここに天平十五年十月十五日菩薩の大願を発して、盧舎那仏一体を造ることにする。国の銅を使い尽くして像を造り、大きな山を削って仏堂を構え、広く仏法を世界に広めようと思う。そして、ついには朕も一般民衆も共に仏の功徳に浴して悟りに至ろうではないか。
 天下の富も、天下の権勢も朕が持っている。
 この富と権勢を使って、この大仏を造る。



聖武天皇が徳を積むため、大仏建立と国分寺・国分尼寺の建立にかけていたかが分かります。

この他にも聖武天皇の后、光明皇后は「悲田院(ひでんいん)」「施薬院(せやくいん)」を創設しました。悲田院は孤児になった子供を養う施設、施薬院は庶民の為に薬草を使った医療を無料で施した施設です。
似たような事を民間僧侶の行基も細々とやっていたようですが、それを光明皇后は国家事業として行いました。

結論

天皇になるためには、アマテラスの子孫(神武天皇の男系の子孫という意味ね)であれば特に徳は重要とは言えない。しかし、一度天皇に即位すると徳があるかどうかを常に問われ続け、天皇自身が徳を持とうと絶えず努力するものだと言えるだろう。