(続き)

長寿であることも徳のある印とされてきました。
同じ天皇の御代が続くということは朝令暮改がないということです。そして、それは民が安心して暮らせるからです。古代の天皇が長寿とされているのは、年数を引き伸ばすためと言うこともありますが、それが徳のある印であるという考え方からも来ていると思います。


大正天皇と貞明皇后

 さて、大正天皇は大変病弱でした。そして、結果的にその御代は短いものとなりました。
貞明皇后は夫の大正天皇が引退せざる得なくなったのは、大正天皇が祭祀に熱心ではなかったため神罰が下ったのだという後悔の念を持っていたということです。
昭和になってから、(皇太后となった)貞明皇太后は常に昭和天皇に「神を敬わねば神罰が下る」と教え諭していたそうです。

貞明皇后は病弱だった大正天皇と対照的に、非常に健康でした。大正天皇とともに側室制度を廃しましたが、病弱な大正天皇によく尽くし、夫婦仲は大変良く昭和天皇をはじめ四人の親王に恵まれました。
皇太后になってからはハンセン病患者のための救癩(きゅうらい)事業などを援助し、養蚕や灯台守(灯台の番をする人)への理解が深く、援助を行いました。

貞明皇后が疎開を拒否された話は有名です。
こちらのブログに工藤美代子著の『母宮貞明皇后とその時代~三笠宮両殿下が語る思い出(中央公論新社)』からのエピソードが載っていたので、東京空襲の部分を引用してみましょう。

【以下引用】

さて、昭和二十年に到り、東京は毎夜空襲に脅えるようになった。三月十日の大空襲では死者10万人を出す史上空前の大惨事を招いた。そしてついに、東京中心部を葬り去る五月二十四・二十五日の連続大空襲が起こり、赤坂御苑内の各宮邸・大宮御所は炎上。余りにも凄まじい火炎から、飛び火により宮城(皇居の戦前までの名称)内の明治宮殿まで炎上した。
有名な話だが米軍は最後まで宮城には爆撃を加えない方針だった。しかし、赤坂御苑内にある各宮邸、特に大宮御所を炎上させることによって皇室内からも厭戦気分を出させ、皇太后から天皇へ戦争を止めるようにとの要請があるのではないか、と米軍は踏んで居たのではないか…と言う風評が当時かなり流れていたのだと言う。
東京空襲が激化していた頃の皇室は、もはや体面などを構っていられる状況ではなかった。一般大衆と同じく、今日の命を精一杯生き抜いていたと言うのがインタビューでもわかる。
三笠宮邸には、宮が陸軍に配属していたせいか、かなり立派な防空壕を陸軍が作っていたらしい。大宮御所には皇太后が暮らすため、こちらも防空壕だけはかなり立派なものが備えてあった。
空襲が始まると皇太后は、防空服に鉄兜をかぶり、小さな経机に地蔵菩薩や念仏の朱印を奉書紙にいくつも捺していたのだという。犠牲者を弔い続けていたのだ。三笠宮妃はと言うと、生まれたばかりの甯子内親王を抱え、水を頭から被って壕内に入ってくる煙を必死に止めていたそうだ。御苑内は生木すらも燃え上がった。
結局、高松宮邸と秩父宮邸の日本館と赤坂離宮(現・迎賓館)を残し、御苑内も市中同様に焦土と化した。それでも皇太后は、いざと言う時のために疎開をすることを拒んだ。どうやら皇太后は、昭和天皇の身に何かがあった時には、幼少の皇太子(今上天皇)を即位させて自らは摂政になるか、または昭和天皇の身代わりになる覚悟であったという。
【以上】




宮中祭祀

ここで、宮中祭祀について少し考えてみましょう。
宮中祭祀は明治以降に復活されたもので、それ以前は皇室も仏教徒だったのだから祭祀はさほど重要ではないという人がいます。
しかし、そういう人は祭祀を目的だと思っているのです。

宮中祭祀は手段です。皇祖神や八百万の神は皇室の先祖になります。災害や疫病戦乱の元となる怨霊神も皇室にとっては先祖や関わりのある人であることが多いです。そういう神々を慰めることで災害や疫病戦乱といったものをなくすために祭祀は行われるのです。
奈良から江戸時代まで、海外から入って来た仏教の方が日本古来の方法より、こういった神々を慰め祀る効力が優れていると考えられていました。だから、神々を祀るための行為は一部または全部が仏教によりなされていたのです。
明治以降も手段が少し変わっただけで、目的は全く変わっていないといえるでしょう。


(続く)