鍬山神社へ初詣 + 安威川ダム工事現場 | カメポンニュの足跡

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 この10年ほどは年末は鳥取県の投入堂へ除夜の鐘を突きに行っている。今年はコロナのおかげでいけない。やる気がなくなってしまって正月は家でゴロゴロとして過ごしていた。2日は家族で鍬山神社へ行くのも恒例であったがこれも自粛した。

 6日。朝7時に突然家の電気が消えた。どうやら停電みたいだ。幸い5分ほどで復旧した。しかし、テレビがつかない。電波が入らないらしい。ネットも使えない。ケーブルテレビの元のところがトラブルになっているようだ。復旧までに時間がかかるかもしれない。本でも読もうかと思っていたら、鍬山神社へ初詣に行くチャンスだと気が付いた。そう決めたらすぐに出発だ。

 高速に入り、まずは吹田SAに入る。トラックがいっぱい止まっている。乗用車はほとんどいない。

ここから高槻へ行き、山を越えて鍬山神社へ向かう。神社の駐車場は奥のところは入れなくしていた。普段はそれほど人が来ないのだろう。

駐車場から神社へと向かう。「初詣」ののぼりがはためいている。お参りしている人も何人かいる。

神社の入り口あたりに神主さんの家がある。表札に「神主宅」。とても分かりやすい。

入り口の鳥居をくぐる。

赤い鳥居は新しいが、基礎の部分はなかなかの年代物である。

松平定信が「寛政の改革」なるものをしたころだろう。200年ほど前だ。

まずは水で手を清める。コロナの影響でひしゃくはなく、手作り感満載のこの流れで手を清める。

ここの神社は社が2つあり、向かって左が八幡宮だ。

向かって右が鍬山宮だ。このお宮がここの神様らしい。お宮参りの袋?がたくさんつけられている。

ここから神殿の裏を回る。裏からお願いをするようになっていて賽銭用の穴が開いている。

一周して元に戻る。鳥居が古いものだとわかったので他のものも見てみる。年代は読み取れなかったが狛犬も地衣類がついていて古そうである。

石灯籠も古そうな感じがする。

後ろに年代が刻んである。「天保」のものだ。

 水野忠邦が天保の改革をしたらしい。これは、鳥居より新しいものだ。

これは何かよくわからないものだ。

この年代を見ると、「安政」である。

 これが一番新しいものである。安政年代は日本で地震が多発したときである。南海トラフで地震が発生し、大阪の道頓堀あたりで多くの人が津波で亡くなった。大阪ドーム(京セラドーム)の近くにこの時の被害を書いた碑が残されている。今でも刻んだ文字に定期的に墨が入れられて保存されている。

 この後は池の周りを散歩したり、焚火にあたったりしてのんびりと過ごした。のんびりとしていると時間が過ぎるのが早い。もう、昼前である。ここからどうするか考える。同じ道を帰っても面白くないので安威川沿いに茨木へ向かうことにする。この川は河川縦断面図を書いて勾配の急なところ、緩いところの横断面図を書くと谷の形と勾配の関係がよくわかる川である。

 この急こう配の出口あたりに「安威川ダム」が建設されつつある。ダムによくあるように反対運動があり工事が止まっていたがお決まりのコースで建設が始まっている。現場を見下ろすところに資料館が立っている。そこへ行くことにする。

道路からちょっと外れて段丘面の上に資料館はある。

このコンテナをつないだのが資料館である。ダムができたら撤去するのだろう。自動販売機の右手の入り口に向かう。

なんと、閉館中。こんな誰もいないというのに…。建物といい、運営といい、あまりやる気を感じられない。工事さえ進めばいいというメッセージがしっかりと伝わってくる。

仕方ないのでここから工事現場をのぞく。これはここから見たら絵になるというのだろうか。

現場を走っている工事用の車のタイヤを展示してある。一番右端が普通の車のタイヤである。

こういうのを眺めて帰路に着いた。

 ところでこのダムは本当に必要なのだろうか。このすぐ南には有馬高槻構造線という大断層が走っている。一応、しばらくは動かないという予想ではあるが、この予想精度はかなりあやふやである。水がたまった時に地震でダムが決壊したらえらいことになる。そのリスクに勝つようなメリットがあればいいのだが、私には判断できない。