雨天決行。
昨日は朝から、旦那さんがスニーカー を履いて、
野郎3人で、
「観音山」 に登りに行ったようだ。
バックルの壊れた革ベルトを、
彼の代わりに買いに行った私の帰りを待っていたものは、
びしゃびしゃに濡れて脱ぎ捨てられた、
旦那さんの灰色のY-シャツだった。
「やっぱり、登ったのか・・・」
以前、この観音山(といっても、複数あり、いちばんココから近い山)
の近くをタクシーで通ったときに、
空に、瑠璃色の光の玉が観えたことがあるの。
共通目撃者は、タクシーの運ちゃんと、信ちゃんだったかな
ちょうど、昔、FACEBOOKを始めたばかりの頃で、
友人さん に、その時、ふっとこんな考えが浮かんだわ~~ って
話してみた。
「きっと、みんな生まれてくるとき、才能のギフトを持ってくるんだけど、
その才能は、完璧じゃないの。
赤ちゃん って、生まれてくるとき、”にぎにぎ”の手をしてること
多いけど、アレ、光(才能)の玉を持ってるんだよ~
・・・でね、柔らかいそのタマを握っちゃうから、”楕円形”。
なんでも揃ってる、完璧な○(マル)じゃないんだ。
今日観た、あの楕円形の光のタマは、
そんなこと、考えさせてくれた。」 ってね。
昼からは、主寝室で、
またなぜだか、信ちゃんと二人
メル・ギブソン監督の
「THE PASSION OF THE CHRIST 」
という映画を見ていて、
このイエス・キリスト様のかあちゃんは、
マリア様っていうんだよ~ って、話してた。
ちょうど、従妹もシンクロ?で、その映画を見てて、
「偉大なかあちゃん、マリア」
( SOMETHING BLUE 伝説 を作ったお方 )
については、話題沸騰してたとこ。
そこに、ジャストなタイミングで、この方のブログでした。
「レーナ・マリア 」
身体に障害を持ちながらも、愛と希望を歌い続けるゴスペルシンガー、
レーナ・マリア氏の記事を紹介します。
(以下は、セイジさまの記事の方で、ご覧くださいね)
私が中国大陸に渡ると、
日本にいる友人のNちゃんが、「二ッポン の情報」として、
ときに、本やビデオ(←その頃は)、CD、などを送ってくれたが、
その中に、
乙武洋匡
(おとたけひろただ)さんの 「五体不満足」 の本もあった。
中国で、もしそのようなお体で生まれてきたなら、
地面にはいつくばって、
前にスチールの缶を置き、
わざと汚い恰好をして、
無言で、じぃーっと、雨の中でだって、何時間でもそこにいる。
道行く人には、”無視”も多い。
その行いの裏には、必ずそういう専門の職の親方がいて、
そんなわずかな収入でもネコババするのだ、と聞いてはいても、
それでも、それ以外に「職」を与えないこの国の制度に
かなりの義憤を感じながら、缶の中に小銭を入れる。
うちの旦那さんなんか、「バカだ」と言われるほど、入れたこともある。
なんにもしないよりは、マシだ。
真子ちゃんなんかは、走ってお金を渡したとき、その方の笑顔が
「なんて、綺麗なんだろう・・・ 感動しちゃった・・・
あんな笑顔のためになら、なんでもしてあげたいワ~。」 と、言っていた。
乙武さんの本を手にしてから、
何人の中国人に、日本のこの方の存在を誇ったことだろう・・・
そして、”乙ちゃんルール”の存在を、
日本の子供たちが遊ぶときにある あの優しい”ごまめ”精神を、
どのくらい、中国の人に、自慢したことだろう・・・
乙武さんの排せつ介助を手伝わされた子供の親御さんが、
「子供にいい経験をさせていただいて、ありがとうございました。」
そう言った、というのが、本当だろう。
「エレベーターで介助しないと怒る前に、
これこれこういう事情の私が行きます!と通告しておけ。」
などという考えは、 である。
人は皆、不満足。
外から見えている部分のことだけをいうのではないのだ。
さんの言葉を借りるなら、ジグゾーパズルの1ピース で、
得意(出っぱってる部分)と不得意(へこんでる部分)があって、
それらが、合わさって
1枚の完成品(画)になる。
ならば、
アナタも不完全なはず。
そのアナタが、乙武さんに、「私は不完全です!と宣言しておけ。
そうでないと、手助けを断られても、仕方がないのだ。」
などという理論は、まったく意味がないのだ、と思います。
できることをしない。
それは、イヤだ。
そんな人に、天は、
いろんな奇跡の技を、魅せてくれる・・・・・
その人のプリズムを通して・・・・・
助けたり、
助けられたりして喜べる、不満足