春の出会い | 亀の子ワタシ

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亀の子ワタシのつれづれ雑記帳。

 

昨日、ドロップスに痺れていることを書いたら

 

今日は痺れる言葉に出会いました。

 

なにこれ。まじか!

 

春はあけぼのだけど、その春のあけぼのに私、泣きました。

 

それは、こんなことばでした。

 

「学問を尊敬する」

 

もし誰かに「あなたってどんなタイプ?」と聞かれたら、「バカにされやすいタイプ」と

 

うっかり答えてしまうくらい、私は学生の頃からしょっちゅうバカにされてきました。

 

理由は、おそらく、バカだから(汗)

 

「おそらく」と書いたのは、理由を聞いたわけではないので。

 

ただ、バカにされていると感じるのは、決まって同じシチュエーションなので

 

決して被害妄想ではないです(笑)

 

私がめっちゃ必死になって話したり、何かをしていると、涼しい顔で

 

「なんか、大変そう~」「必死やね」とわざわざ言ってくる人の多さでは

 

日本一が狙えるんじゃないかな。

 

ひどい時は、自分から話を振っといて、もたもた話す私に「もうその話はいいって」

 

更には、伝わっていない気がして話をやめない私に対して、肩を叩きながら「どう、どう」

 

そこそこ長い付き合いの友人に「どう、どう」をされたときは、さすがに落ち込みました(笑)

 

あ、サイゴの(笑)は、無理くり笑いに変えました(汗)

 

一旦この状態になったら、人の目線ってなかなかひっくり返りませんね。

 

付き合いが深まるにつれ、私の存在は軽くなる一方。

 

たとえばAさんと同じことをAさんよりも前から私が言っていたとしても、

 

そんなのちっとも覚えていなくて、伝えられる立場になったり、と

 

話の中身よりも、誰が言っているかを基準にする人たちに、驚くほど軽く扱われます。

 

まあ、たいした話は何一つできないし、アホがとりえの私なので、

 

くよくよするほうが、どうしたん?って感じですが、

 

それでも真剣に答えたことを軽く受け流されてばかりだと、たまに切なくなります。

 

こんな私だからかな、人がつくるもの(音楽や小説など)の中に自分に近い感覚を見つけると、

 

すぐに心が鳴いてしまいます。

 

感動が過ぎると、体調を崩します(汗)

 

それで、ああ、この感覚を得るために、これまでの切なさ、もどかしさはあったんやーってなって

 

ようやくひっかき傷を俯瞰できるようになります。

 

今日たまたま出会った「学問を尊敬する」という表現ですが、

 

「尊敬」は多くの場合、人を含め生き物に向けられる言葉ではないかな。

 

それを「学問」に使う人がいるということに、しばし固まりました。

 

学問に携わる人を尊敬するというより、ずっとずっと学問自体を尊いものと捉えているところに

 

ただひたすら感動しました。

 

春です。

 

この出会いによって、私は少し自由になれたかも。